虎を見に行きたい
夏の終わりに風邪をこじらせて寝込んでいた。
ようやく回復して朝早くにぱっちり目をさますと、光のかんじが変わっていて季節が秋になっていた。
朝日で明るくなった部屋をじいっと見ていたら、幽霊にでもなったみたいに胸のあたりがすうすうする。
仕事は連日休んでいて誰にも会わずにずっと一人でいたし、これからまた元の暮らしに戻るだなんて、少し考えただけで不安で仕方なかった。
久しぶりに沙羅からメッセージが届いたのはちょうどその朝で、そこには「虎を見に行きたい」と書いてあった。
虎だなんて前に見たのがいつだったかも思い出せないし、この町のどこにいるのかもわからない。
それでも答えは決まっていた。
朝ごはんを作って食べてから「いいよ」という返信を送った。
昼すぎに待ち合わせの駅のロータリーに着くと沙羅が立っていた。
遠目にも判るこんがりした麦わら帽子をかぶっていて、夏休みの子どもみたいな格好をしている。
そういう私はサンダルを履いていて、素足には剥げかけたオレンジ色のペティキュア。
暦の上ではもう秋のはずなのに、外はそれを無視するみたいに汗ばむくらいの陽気で、ふたりして本当の季節からはぐれて、夏のまんなかにいるみたいな装いだった。
元気だった?とか、そういうお決まりのやりとりもなしに、会うなり沙羅は言う。
「ここは暑いから、どっか入って冷たいものでも飲もう〜」
ひたいに浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、でも暑いのがうれしいみたいな弾んだ声で。
通りがかりで目に付いたチェーン店のカフェに入って、ふたりで向かい合わせに座る。
お互いに頼んだ飲み物はあっというまにカラになって氷だけが残り、結露がテーブルを濡らしていた。
どうやら沙羅はひとを呼び出しておきながら、このあと特に行くあてがないらしい。
日本に野生の虎はいないんだからね。私は呆れつつも近くの動物園について携帯で検索してあげた。それにしてもどうして沙羅は虎が見たいだなんて言うのか。
「ううん、いいの。別に虎が見たかったわけじゃなくて、ただ言ってみたかっただけっていうか。だからもう満足しちゃった」
「何なのそれ」
私は意味がわからなくて当惑した。それでも沙羅は決まり悪そうに、にやにや黙っているだけで、なかなか理由を話してくれない。
それでもう店を出ようということになって、ようやく打ち明けてくれたんだった。すごく恥ずかしそうに、うつむきながら。
「なんか昔みた映画なんだけどね、女の子が虎を見に行くシーンがあって、それを思い出しちゃってさ。好きな人といっしょに一番怖いものを見たいっていう女の子が、デートで動物園に行くの。それで恋人にしがみつきながら虎を見ていて。見ているっていうか、たしかジッと虎を睨みつけているんだけど。それがなんか良いなあって思って、真似してみたくなっちゃって。そう、それだけなんだ」