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料理が苦手だった私が、色鉛筆をカッターで削る理由

検索すれば出てくる便利な時代。それは時に、先人たちからの批判であったり嘆きの対象になったりする。
完成された本の素晴らしさも、辞書をひく意味も、確かにそうだろうなと思うし、本は好きだ。

ただ、私は、あれに救われたのだ。文明の力に。

『卵、ひき肉、玉ねぎ』 
と入れれば、ハンバーグだけじゃないものが、無数に出てくるレシピたち。  

料理検索サイトなるものに。

昔、家庭科の調理があんなに楽しかったのに、どうして家で同じものを、直後一回しか作らなかったんだろう。あのころ、ハンバーグには、ナツメグを必ずいれなければいけないと、思っていたからだ。

もちろん、美味しい料理を作るためにあったらいいのだろう。ナツメグもローリエも、パン粉も、必要だからレシピに書いてあるのだ。さぞかし美味しい料理になるに違いない。それが基礎だと言われれば、そんな気もする。 

でも、家庭科でならったくらいしか料理をしない中学生だったか、小学生だったかの私は、家でそれを披露したいと思ったとき(もしかしたら宿題だったのかもしれない)、いそいそと、レシピの材料を見返しながらスーパーでその馴染みのないものを買いに行った。うちにはなかったから。

買いに行くときは、なんでうちにないのか疑問だった。母が、ナツメグなんて入れるんだね~なんて言ってたのも覚えているし、入れないなんてだめだなぁと思っていたような気もする。でも、使ってみて分かる。

これ、絶対使いきれん。

てか、他に使う当てが全く思い付かん。

なんせ、当時は検索なんてできない時代、ローリエ使う料理なんて中学生が思い付くはずもない。母もそういう類いの料理に興味がなく、結果ナツメグもローリエも、いつ開封したかわからないくらいの年代物になり、いつの間にかサヨナラされていた。

料理は、レシピ通りに作らなければならない、そう思っていた時期は長く、それは大変だった。グラムで計れば野菜が半端に余る。ない材料は買わなければならない。めんどくささとコストが、料理への興味をどんどん削いでいって、思い付きでできる野菜炒めか煮物かカレーか、だしと味噌さえあればいい味噌汁か、なんでも残飯入れて言いと思っていたお好み焼きくらいしか、バリエーションがなくなっていた。

そんなとき、クッ○パッ○などの検索サイトが出始め、私は衝撃を受けた。
え、牛乳なしのハンバーグ?
え、パン粉なしのハンバーグ?
え、卵なしの……
こんなにメインの材料なくてもいけるの!?

これがなかったらこれを入れるといいとか、
これは入れないとこんな食感になるとか、でもできるとか、
パン粉なんて冷凍食パンすりおろせばいいじゃないとか、

ないからできない、と思っていたものが、もっと自由でも美味しくなるし、もっと適当でもなんとかなると、知ったのだ。

まぁ、適当すぎてハンバーグが、崩壊してひき肉いためになったこともあったけど。それでもいいかと思えた。それをアレンジして食べられた。

きっちり作ることが料理じゃないと思えてから、日々のご飯作りが楽しくなった。チャレンジ出来るようになって、だんだん代わりに使える物の法則が分かってきた。
レシピ通り美味しく食べられたら、成功。

話はかわり、

娘とぬり絵しながら、娘がもうかけないよーと差し出した色鉛筆。
私は、さらっとカッターで削ることにしている。
先人たちの技術を教えたいということも少しあるが、そこにこだわりたいわけではない。

ただ、鉛筆は、鉛筆削りじゃなくても削れる。
ということを知っておくのは悪いことじゃないなと思うから削る。きっと否応なしに小学生になれば鉛筆削りとは仲良くなるだろうから、いまはカッターでも、いいかなと思っている。

これがないから、あれができない、と、諦めるのではなく、これで代用できるとか、こんなやり方もあるとか、作れるとか、いろいろ知っていた方が、しなやかに、人生を楽しめるからだ。

昔、学童に勤めていた頃、ゲーム持ち込み禁止の学童で、スーパーマリオを紙に描いて、ルートを自分達で描いて、見事に遊びに変えていた子達を思い出す。ないからできないと嘆くより、友達同士ワイワイ自分達で考えて作った紙のゲームは、なんならきっとリアルマリオやってるより、楽しんでいる表情だった。

これからの時代、コロナ禍の制約がまだまだあったり、機械化が進んで電気がなかったらなにもできなくなりそうだ。それでも、料理は作れるし、鉛筆は削れる。楽しみは見つけられる。

そんな、さりげない願いを込めて、さらっと色鉛筆を削ってみる。
きっと娘は気づいてないかもだけど。



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