5歳をこえていった、ちいさいモモちゃん
あめこんこんふってるもん、うそっこだけど、ふってるもん
と紙芝居を読みながら、ちらりと子どもたちを見ると目が輝いていた。気持ちは一緒に歌っている。
保育園の先生と言われていたころ、1、2歳児さんに、さんざん読んだ小さいモモちゃんのお話。
自分が小さい頃、青い鳥文庫のモモちゃんシリーズはもう家にあって、読んだ記憶も読んでもらった記憶もないほど、染み込んでいた。
嘘だ、読んでもらった記憶は、読んでいるうちに思い出す。
だから娘が、なんの気無しに本棚から「これ読んで」と手に取り、一冊目の「ちいさいモモちゃん」を読み始めてすぐ、にんじんさんがおうちに来たとき、記憶がばっと蘇った。私は何歳だったんだろう。記憶の中の母は今よりずいぶん大きかったような気がする。
私が、年中5歳に青い鳥文庫を読み聞かせる気になったのは、私の好きだった本を本棚から見つけてくれたことの嬉しさがある。
だが、無類の絵本好きで、宵っ張りの娘が、長いお話なら寝ながら目をつぶって聞けるし、寝かしつけと一石二鳥になるのでは、という邪推があったからだ。
決して教育目的ではない。
なので、ゲラゲラと声を出して笑い、一話読み終わるたびに「早かった。もう一個読んで、読んでくれなかったら目玉ほじくるから!」と脅し暴れる娘を見ることになろうとは……子育ては思い通りにいかないものである。ちなみに目玉ほじくるという、想像するだに恐ろしい拷問フレーズの発端は、あの国民的平和映画「トトロ」である。
えてして、毎晩毎晩数話ずつ読みすすめ、2冊目3冊目と、家にないものは図書館から借りて、とうとう今日、6冊目が読み終わった。
読み始めて4ヶ月あまり。松谷みよこさんが書き始めて書き終わるのに30年かかったそうだ。
1話目で生まれたばかりだったモモちゃんは、キラキラした目で紙芝居を見ていた2歳児の子どもたちの年齢を超え、娘の5歳の年齢を超え、
モモちゃんは中学生に、妹のアカネちゃんでさえ小学生になった。
そして、モモちゃんたちのママは離婚したり、引っ越したり、仕事が忙しくなったり、パパがなくなったり、ファンタジーの中に、ものすごくリアルな出来事がやってきた。
当たり前にねこのプーと話したり、にんじんが泣いて逃げ出したり、靴下のふたごが助けてくれたりするのだけど、モモちゃんのママも、モモちゃんも、アカネちゃんもものすごく普通の家族で泣いたり疲れたり気を使ったりする。
きっとそれは松谷みよこさんのお家の話だからだ。モモちゃんもアカネちゃんも、実在する娘さんたちだった。
一昔前の話だから、昭和だなと思う場面は多々ある。でも、令和の娘は聞きながらケラケラ笑ったり真剣に考えたりしている。難しい言葉は聞きながら、絵がなくても、意外と理解している。
私は、ああ、続きはこんな話だったのね、と思いながら、読み進める。
モモちゃんとアカネちゃんの世界で一緒に生きているみたいだ。核実験に涙する話が出てくるけれど、未だにロシアとウクライナの戦争や、北朝鮮のミサイルがテレビに出るし、娘も心配する。ママはお仕事ママで、子どもたちは保育園に入る。子どもたちが大好きだけど、疲れて寝てしまったり、在宅ワークしていたり、リアルだ。
みんな、それぞれ、主役として生きている。だから、今の時代になっても響く。
まさに松谷みよこさん家の物語。だからリアルなんだな。
大人になって、ママの立場になって分かった、ちいさいモモちゃんの世界があった。
小さい私もまた大人になり、保育園でモモちゃんに再会し、そしてママになって娘に読む。
モモちゃんは私の物語でもあった。
そして、娘の物語が始まった気がした。
モモちゃんを読み終えたらクレヨン王国を読んでほしいという娘。あの、貪るように本を読んでいた私の時代をなぞっていくのか。楽しみなような怖いようなである。