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子どもと大人は対等なのか

ヨーロッパでは子どもを一人の人として扱うと言う話を聞いて、思い出す場面があった。

昔昔ヨーロッパでは、子どもは『小さい大人』として扱われていたらしい(絵画でも大人を小さくしただけの人として描かれていたりする)。それが『子ども』、という存在として認識され、子どもの権利条約などに繋がっていったそうな。

そして今、子どもは一人の『子ども』として、当たり前に対等に扱われているというのだ。

日本はどうだろうか。
最近、松谷みよ子さんの『ちいさいももちゃん』シリーズを娘と読んで、衝撃を受けたことがある。
何十年も前に刊行されたこの本で、幼児と呼ばれる子たちの自由なこと!幼稚園には一人で行くし、一人でお友達の家に「あーそーぼー」なんて行ったりする(事前アポ無し)。ファンタジーが混じっている以前に、きっとそういう時代だったのだろう。
今では考えられない。
今は小1でも、近所で遊びに行くのも大人が、付き添う。

きっとその次代から今に至るまで色々あって、時代が変わり今、子どもだけで近所をウロウロしている幼児はほぼ見かけないし、小学生でさえ『放置子』なんて言葉をつけられてしまう。
現代は車の数も違うだろうし、子供の数も違う。じゃあ、自由がいいのかと聞かれたら、娘を勝手気ままに遊ばせるのにも不安が残る(昔はGPSもないし)。
それでもあえていうとするならば、子ども、子ども扱いされすぎてないか?
それも、大人の都合の良い。

小学生の頃、そこまでおてんばだったと自分でも思わないが、近所の子と一緒にやった遊びといえば、勝手に生垣に入るだとか、木登りとか、塀から飛び降りるとか、公園のトイレの屋根に登るとか、そんな事だった。大人に怒られるのもセットで、でも反省してなかった。要するに、やりすぎていたのだ。ケガしない程度に。どのくらい高いところだったら飛び降りても大丈夫か、どのくらいしなる枝なら乗った時折れそうか、どこで登ったら怒られるか、やりすぎながら、怒られながらボディイメージをつける。専門用語で感覚統合と言うらしい。そう思うと、今子どもをいい意味でほっとく、というのがすくないなぁと思う。
プレーパークに、よく行くけど、それだって囲われた中でしか遊ばない子どもたちが不思議だ。

兄弟が多かったら違うのかな。

公共の乗り物や建物は、静かに座っていられる健康体の働き盛りの大人が中心で、そこに合わせなくてはいけないし、保育園も小学校も大人の都合で決められた時間が多い。

我が子はのんびり屋なのだが、ベネッセのコラムに『小1の子どもは、まだむしろ体内時計が正しくて、大人の方が時間で動くことを子どもに合わせてもらっている。』という内容をよんで、なるほどと思った。

こどもに、大人の方が合わせてもらっているのだ。

考えてみると、車だって、犯罪だって、大人側の責任だ。子どもが自由に過ごせないのは、大人の責任なんだなぁと思った。

最初に戻るが、子どもを対等に扱うのが当たり前なヨーロッパでも、子どもが大人みたいな口をきくことによく思わない人もいるらしい。対等、と、大人側が思うのはいいけど、子どもが思うのはなんかヤダ、という感じかもしれない。

と、ここまで書いて、冒頭に言っていた、思い出したことに、つながってくる。

娘が、最近私や親しい人とは普通に話すのに、図書館の人やお店を人に聞くときに、声色を変えているのがずっと気になっていたのを思い出したのだ。
娘は本能的に、大人の好む子ども像を演じているのだ。
「ありがとうございました!」と言える、でも、ちょっとしっかりしすぎない、舌っ足らずに近い子どもを演じている。もう小学生だから、普通にしてても可愛いという年齢を超えたことを感じ取っているのか、3割増で純粋無垢な女の子を演出しているのだ。

それが策略的にそうしている、というわけでもない。無意識で、やってそう。本能的に、大人のお姉さんたちの好む子どもを感じているようなのだ。もしくは、私が意識なく娘にさせているのかもしれない。

なんていうか、大人の思う子どもの理想と、子どもの実態って、ちょっとズレているのではないかな、と思った。
そりゃそうだ。この世の中働き盛りの大人が基準となっているのだから。
不登校が増えるのも頷ける。
子どもを幼児扱いせず、かといって、大人扱いするわけでもなく、子どもを子どもとして、いや、その子をその子そのものとして、対等に見る。それってとてもむつかしいなぁ。

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先日、近所にお祭りがあった。
子ども神輿が出て、担ぎたい子どもがわんさか集まった。コロナ以来だったから、近所の方の力の入れようにびっくり。こんなに盛り上がるとは思わなかった。娘はクラスの友達を見つけて大はしゃぎ。

わっしょいわっしょいと担ぐ姿もさることながら、なんていうか、『休憩』がまた良かった。

道端で休憩。近所の方が机をだし、お菓子やらパンやらキュウリやら梨やら差し入れを子どもたちにたくさん配ってくれた。警察の方はついてきてくれてるものの、別に道路をかっちり封鎖しているわけでもない。対して車の交通量の多い場所ではないが、30分近く、道端いっぱいに親子が集い、子どもは食べたいものを食べたいだけ食べ、知り合いを見つけてははしゃぎ、ワチャワチャして楽しそうだった。

それを見て思う。大人が、どれだけ扱い方を考えてみたところで、子供同士のワチャワチャには叶わない。
わちゃわちゃをどうあったかく見守るか。それくらいしかできない。

車が通りたい時は避ける。でも、休憩が優先。休憩て言ったって、座ることなや静かにすることを強要されない。大人が、周りや、迷子に気をつけてればいい。そんな場所がたまにはあってもいいよねぇ。と思ったのだ。

たのしかったら飛び跳ねて、帰りたくなかったら文句言って、食べたかったら食べて、たまにふざけすぎて。
そんな子どもを、子どもだもんなーと、受け止めて、大人は大人側の意見を伝えて(けして言いなりではなく)、大きな大人として子どもの安全を守りながらも、対等に付き合っていけたら。

そんな日が増えたら最高だなー、と思った。

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