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見ることと見られること
「見ることと見られること」への、そのプロである高名な映画評論家のエッセイです。
実際には花見のにぎわい、それ自体が人をさそってやまないのだと思う。だから花見では、人は花といっしょに人を見る。他人もまた、人を見に来ているので、自分も他人に見られることになる。
花といっしょに人に見惚れる、そのことで見られる側にある種の自覚が生じる、ともいえます。
見る主体と見られる対象が逆転している場から考察を進められている、といってもいいでしょう。視線を意識することで私たちは自身を認識し、自己を形成するということですから、見られることで主体となるといえそうです。
逆に、見るという行為は見惚れるや見守るなど、対象にとらわれることですから、主体性の放棄に近いということになります。
たとえとしてポルノ映画があげられています。かつてはポルノ専門の映画館へ行き、他人の目を意識しながら、上映と同時進行で観るという体験でした。
レイプ画面が見る者のお目あてであっても、レイプは最後に罰せられるというストーリーになるのが普通で、お目あてのレイプ場面を見るには、原則としてそういうストーリーをぜんぶ見て、タテマエだけにしろレイプは悪いという結論に達して映画館を出ることになる。ビデオはそうではない。(略)自分の個室に閉じこもって、レイプ場面や残酷場面のクライマックスだけをくりかえし見つづけることが可能になるし、そういう観客の要求に合わせてそういう場面だけの作品もつくられる。
寡聞にして、クライマックスだけの作品の存在は知らないのですが、ビデオにより、目的のシーンだけを見ることが可能となりました。それは早送りをして好みのシーンを選んでいるのですが、そのことで映画よりもより強く、見ている対象に支配されることになってしまっているのです。
個人経営の商店においては商品は主人の人格を反映しているから、商品をジロジロ見られることは主人にとってかなりの程度まで自分を見られることである。
ここで見られているのは、商品であって主人ではない、にもかかわらず選んだ商品を見られることは、選んだ主人を見られることに通じる、というのです。ここでは、ジロジロ見る客も主人も商品も、見る-見られるという関係のなかで三者のどれもが「対象」とならず、主体(性)を振り分けられているのではないでしょうか
『見ることと見られること』佐藤忠男 岩波現代文庫 2007