家族と国家は共謀する
集団というものを考えるとき、そこには権力といいますか、求心力による「まとまり」を維持している状態にある、と定義できるように思われます。身近なものとしての「家族」から「国家」まで、それは政治力により維持されています。
そこまでのあからさまな「家庭内暴力」は減ってきていますが、いまだに悲惨な「虐待」や「DV被害」は後をたちません。おそらく無意識に「法は家庭に入らず」という原則が刷り込まれていて、家族は国家とは別のルールが支配している、のかもしれません。
同じようなことは一九八〇年代のアメリカで、戦争被害のPTSD被害に関してもふれられています。
これは、〈国家をささえる軍事イデオロギーを守るために、国家を支える家族のイデオロギーを守るために、戦争神経症も性虐待もないものとされなければならない〉(219頁)ために生じた「見えない化」現象だ、といえます。
そこでは、イデオロギーとしての国家をささえるものとして、ユートピアとしての家族イデオロギーを聖域化して温存している、という共謀関係が見られます。結果として、家族と国家は共謀して被害者を被害者であるままにしている、といえます。
これらの権力による暴力に対して、加害者・被害者双方からの抵抗《レジスタンス》に希望を見いだします。それには「想起」が必要である、といいます。
被害者は被害と向き合うことで「被害者である」という規定からはみ出せるし、加害者は加害行為と向き合い続けることで、被害側と共通の地平に立てることになり、両者は「心的外傷からの回復」をたどることが可能となります。そして、このレジスタンスは、政治集団の暴力に対して、有意義な手段となりえる、といいます。
たとえとして、伊藤詩織の『Black Box(ブラックボックス)』での性被害の告白があげられています。同書の内容は冷静に読めば、第三者にとって真偽を確かめられるものではありません。しかし、被害にあったと認識し認め、それを表明するというのは、その行為自体が承認され波及を呼び覚ますもの、という意義をもちます。
信田さよ子「家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』
角川新書 2021