今の時

まず、〈今の時〉とはどのようなものなのでしょうか。

〈〈今の時〉は、進歩史観や歴史主義によって、有意味なこととして認められなかったこと、つまり失敗したこと、敗れ去ったこと〉であり、〈取るにたらないと見なされたこと、果たされなかった願望。もしかすると、それは希望されたり、欲望されたりしながら、結局は、まったくなされなかったことであるかもしれない〉(148頁)、と述べられています。

少しわかりにくいですね。〈今の時〉とは「果たされなかった願望」のことだ、と言っています。たとえとして、東ヨーロッパでの社会主義体制の崩壊があげられています。

一九八九年の民主化を経なければ、社会主義体制が戦後ずっと、〈今の時〉を――つまり民主化の切迫した可能性を――はらんでいたことに気づくことはない。(略)過去に内在する〈今の時〉は、客観的に存在している。しかし、事後からの視線を媒介にしなければ、そこに宿る(略)民主化への衝動は、自覚されることはない――つまり対自化されない。

152-153頁

社会主義体制で、民主化という「果たされなかった願望」をはらんでいたことが〈今の時〉として事後に自覚されるもの、と言って良いと思います。

新しいことの到来(民主化)とは、社会主義体制の破局(終末)でもあるのだから、社会主義体制時における「失敗し、もしくは果たされなかった願望」が、民主化がなされたのちに、物語化された歴史主義を裏切るものとしての〈今の時〉としてあらわれてくる、ということでしょうか。

まだまだイメージしにくいです。〈ベンヤミンとしては、〈今の時〉は、(略)敗者や失敗者たちの真正でコンサマトリーな〈衝動〉に根差すものと見なされている〉(148頁)ことが参考になりそうです(コンサマトリーとは現在を楽しむこと)。まず、殿村圭吾『主権者を疑う』から、デモに関する記述を引用します。

 デモの人流が、人々から帰属を奪い、つかの間の自由を回復させるとしたら、これを日常生活において取り入れない手はない。もちろん、帰属や所属から離れて自由な視点に立てるのが、そしてその視点からものを考え行動できるのが、「市民」だとすれば、かかるステータスを公共のために役立てることが当然考えられてもよい。

250頁

そして、

 人々は不安定性(precarity)にさらされている。しかも、不安定性は不平等にあてがわられている。不安定性は時に人びとを貧困や死に直面させるので、この状況にある人たちは自分たちがみな可傷性(vulnerability)をかかえた存在であることを社会に認めてもらわなければならない。それを認めさすために身体を差し出すのがまさにデモなのだ。

252頁

デモは、何らかを抗議するために行われます。そして多くの抗議活動がそうであるように、その抗議が結実することは、ほとんどありません。「失敗し、もしくは果たされなかった願望」としてあり続けるのが、抗議活動の意義といえるのかもしれません。ではなぜ、そのようなことを行うのでしょうか。それを「市民」という意識に見いだせそうです。

〈市民になることは、デモの目的それ自体とはあまり関係がない。何をめざしているのか分からないが、特に知らない人たちの人流に溶け込むこと自体に意義があ〉り、その〈「市民」は(略)あらゆる共同体帰属から自由であるというステータスを言うのかもしれない〉(250頁)。

普段私たちは、なんらかの共同体に帰属して生活をしていて、「どこそこの誰だれ」として身分が固定されています。そして、それから離れることでつかの間の自由を回復できる、と述べています。そしてデモという行動では「身体を差し出す(さらす)」とも述べていました。おそらく、人にとって、そのようなことが「快」なのでしょう。自由を回復することも、私を他者に差し出す・ゆだねるという行為も。

だから、デモをはじめとする抗議活動は、それへの参加が「楽しい」ものなのです。たとえその目的が成就されなくても、「現在を楽しむ」抗議活動として、そしてそれが、今を生きる、衝動に根差す〈今の時〉なのでしょう。

大澤真幸 斎藤幸平『未来のための終末論』『未来のための終末論』
殿村圭吾『主権者を疑う 統治の主役は誰なのか?』ちくま新書 2023




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