今の時
まず、〈今の時〉とはどのようなものなのでしょうか。
〈〈今の時〉は、進歩史観や歴史主義によって、有意味なこととして認められなかったこと、つまり失敗したこと、敗れ去ったこと〉であり、〈取るにたらないと見なされたこと、果たされなかった願望。もしかすると、それは希望されたり、欲望されたりしながら、結局は、まったくなされなかったことであるかもしれない〉(148頁)、と述べられています。
少しわかりにくいですね。〈今の時〉とは「果たされなかった願望」のことだ、と言っています。たとえとして、東ヨーロッパでの社会主義体制の崩壊があげられています。
社会主義体制で、民主化という「果たされなかった願望」をはらんでいたことが〈今の時〉として事後に自覚されるもの、と言って良いと思います。
新しいことの到来(民主化)とは、社会主義体制の破局(終末)でもあるのだから、社会主義体制時における「失敗し、もしくは果たされなかった願望」が、民主化がなされたのちに、物語化された歴史主義を裏切るものとしての〈今の時〉としてあらわれてくる、ということでしょうか。
まだまだイメージしにくいです。〈ベンヤミンとしては、〈今の時〉は、(略)敗者や失敗者たちの真正でコンサマトリーな〈衝動〉に根差すものと見なされている〉(148頁)ことが参考になりそうです(コンサマトリーとは現在を楽しむこと)。まず、殿村圭吾『主権者を疑う』から、デモに関する記述を引用します。
そして、
デモは、何らかを抗議するために行われます。そして多くの抗議活動がそうであるように、その抗議が結実することは、ほとんどありません。「失敗し、もしくは果たされなかった願望」としてあり続けるのが、抗議活動の意義といえるのかもしれません。ではなぜ、そのようなことを行うのでしょうか。それを「市民」という意識に見いだせそうです。
〈市民になることは、デモの目的それ自体とはあまり関係がない。何をめざしているのか分からないが、特に知らない人たちの人流に溶け込むこと自体に意義があ〉り、その〈「市民」は(略)あらゆる共同体帰属から自由であるというステータスを言うのかもしれない〉(250頁)。
普段私たちは、なんらかの共同体に帰属して生活をしていて、「どこそこの誰だれ」として身分が固定されています。そして、それから離れることでつかの間の自由を回復できる、と述べています。そしてデモという行動では「身体を差し出す(さらす)」とも述べていました。おそらく、人にとって、そのようなことが「快」なのでしょう。自由を回復することも、私を他者に差し出す・ゆだねるという行為も。
だから、デモをはじめとする抗議活動は、それへの参加が「楽しい」ものなのです。たとえその目的が成就されなくても、「現在を楽しむ」抗議活動として、そしてそれが、今を生きる、衝動に根差す〈今の時〉なのでしょう。
大澤真幸 斎藤幸平『未来のための終末論』『未来のための終末論』
殿村圭吾『主権者を疑う 統治の主役は誰なのか?』ちくま新書 2023