オーウェルの薔薇
ジョージ・オーウェル(エリック・ブレア)は、一九三六年の春に転居したコテッジに薔薇を植え、そして著者たちは、約八〇年の後にその地を訪れ、〈二本の大きな奔放な薔薇の木が花を咲かせていた〉のを目にすることができました。
あのエッセイとは「ブレイの牧師のための弁明」のことであり、サエクルムとはエルトリア語で〈あるものが生きた記憶とどまっている期間を意味〉し、〈私たちにとって、樹木は別種の「サエクルム」を、より長い時間の尺度とより深い連続性を提示するように思えた。枝を茂らせた樹木が文字どおり避難所となるのとおなじような仕方で、私たちの儚《はかな》い命から身を守ってくれる避難所《シェルター》であるようにそれは思えた〉ものとしています。
樹木は「より長い時間の尺度とより深い連続性を提示する」、一人の個人が生まれる前からあり、「最長老の人が生きた時間を」超えてありつづけ、そして移動せず一箇所にありつづけます。その思いを抱きながら、樹木を眺めることが「喜び」をもたらします。まるで、オーウェルの植えた薔薇を今眺めることで、その薔薇が経た時間が経験できたかのような「喜び」に満たされたかのように。そして植えた側からすれば、何十年ものちにも花を咲かせるであろう、未来を夢見る、ということになります。
合衆国で販売される薔薇の八〇パーセントは、コロンビアで工場生産されている、といいます。
「現在の現実」とは、工場での過重労働、農薬などの環境への影響を与える生産の場をいいます。
それを著者は「だが優美な動きであっても、子どもを蹴り飛ばすのだとしたら、それは醜い」(246頁)と見事なたとえで表現しています。
では、薔薇は、存在はいかにして開かれたものとなるのか、オーウェルの『一九八四』を参照にして、述べています。
工場で生産された薔薇は、販売され「様式美として」消費されるだけです。しかし、薔薇は「愛情や敬意を伝える贈り物」であり、「相手に手渡すのは花だけでなく、それにともなう関係性でもある」、と述べていました。どうやら「関係性」がキーワードとなりそうです。贈る側と薔薇の、受け取る側と薔薇の、贈る側と受け取る側の「関係性」の一致です。そして、現実の植物としての薔薇と、象徴として受け入れられている薔薇。
レベッカ・ソルニット『オーウェルの薔薇』川端康雄/ハーン小路恭子 訳
岩波書店 2022