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コンデルさん
三重県桑名市にある「六華苑(ろっかえん)」に行った。
山林王と呼ばれた桑名の実業家・諸戸清六の邸宅として大正2年に竣工。広大な敷地に洋館と和館、蔵などの建造物と日本庭園で構成されている。国や三重県、桑名市に重要文化財や有形文化財に指定される貴重な遺構である。
とリーフレットに書かれている。
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私は洋館が見たかった。建築物についての知識は全く無いのだが、洋館には憧れのようなものを感じるし、この六華苑の洋館は鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルが手掛けているのだ。
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日本画家である河鍋暁斎についての書物にあたっていた時に外国人の弟子がいたことを知った。それがお雇い外国人建築家として来日していたジョサイア・コンドルだったのだ。
暁斎に入門し、2年後には「暁英」の雅号を与えられるほど画才に恵まれていた。20歳以上も年が離れていたが、固い友情で結ばれていたようだ。暁斎はコンドルを「コンデル君」や「コンデール君」と呼んでいた。「河鍋暁斎絵日記」にもしっかりと描かれている。河鍋家の人々も親しみを込めて「コンデルさん」と呼んでいたそうだ。
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1852年イギリスのロンドンに生まれたジョサイア・コンドル。
1876年、英国王立建築家協会のコンペに応募し、一等賞を受賞。
このことがきっかけで日本政府から声がかかったようだ。
工部大学校造家学科の教師に着任するのだが、学生たちを見下す外国人教師が多い中、熱心で丁寧な指導に加え、明るく親切で温和な性格が学生たちに歓迎された。その学生たちは、のちに日本の近代建築を背負って立つ、辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵たちだ。
建築の仕事をしながらも、暁斎のもとで日本画の腕を磨いてゆくコンドル。展覧会に出品した作品で受賞もしている。暁斎はそれを大変喜び、美人画の制作途中を見せて学ばせ、出来上がった作品をコンドルに与えた。
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写生旅行に出かけたり、二人の関係は師弟というよりは友人であり、暁斎にとってはパトロン的存在だったようだ。他の弟子より月謝を多く払い、暁斎の作品やコレクションを高額で買い上げていた。英国より注文を取り、制作を依頼することもあった。
暁斎が亡くなり、葬儀は雨の中にもかかわらず盛大に営まれたようだが、費用はコンドルともう一人の門弟で一切を負担したという。
お雇い建築家として働いていたのは9年ほどのようだ。
私は知らなかったのだが鹿鳴館の評判も良くなく、日本政府の要望にコンドルが答えられず、次第に政府との間にずれが生じていく。建設計画を相談なく破棄されたりとコンドルの評価は下がっていき、とうとう解雇となるのだった。
来日して11年後、コンドルは個人の建築事務所を開いた。そして三菱、岩崎家から仕事を受けるようになり、邸宅作家になってゆくのだ。
河鍋暁斎の弟子であるコンデル君と鹿鳴館を建てたコンドルが私の中で一つになった。コンデル君の時間は温かく、穏やかなものであったろうと感じた。しかし建築家コンドルの人生は異国での特殊な環境の中、困難を極め、苦しいものになったのではと思う。なので後半の個人で請け負った素晴らしい建築物の数々に胸をなでおろした。
まだこれからもジョサイア・コンドルについて調べていきたい。
参考資料
「反骨の画家 河鍋暁斎」新潮社
「河鍋暁斎絵日記 江戸っ子絵師の活写生活」平凡社
「河鍋暁斎」岩波文庫
「鹿鳴館を創った男 お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯」河出書房新社
「鹿鳴館の建築家ジョサイア・コンドル展 図録」建築画報社
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