震災ボランティアへいった過去
今でも忘れもしない、2011年3月11日、東日本大震災が起きました。
私はその当時はまだ運送会社のトラックドライバーで正社員として働いていました。
それまで多くの仕事場を転々としていましたが、どこで働いていても長続きせず、会社でうまくやっていけない体質の私はひとりの時間の多いこのドライバー業は人と関わる時間がそんなにないから選んでいるようなものだった。
運転して荷物を指定の場所に届ける仕事は確かに楽だった。
しかし、この生ぬるい感じで働いていた私を生き返らせてくれたのは
3月11日に起きた東日本大震災である。
この時私は、大宮駅前でこの尋常じゃない揺れを体験し、
「この世の終わり」を感じました。
死を意識すると人は本能なのでしょうか、なんとなく心が奮い立つものがあります。
その2日後に福島原発での爆発が起きた。
1986年に起きたチェルノブイリ原発事故のようなことが
この日本でも起きたことにこの原発事故がとても身近なものに感じていました。
その時、私が感じていたことは「すごい時代に生きてるな・・・」
そう思っていました。
昔見たことのある黒澤明監督作品の映画の「赤富士」
この映画では富士山が噴火し近くの原発が爆発するという話だったと思う。
この映画の放射能には色が付いていて見えるようになっているけど実際の放射能は目に見えない。
この映画を作った黒澤さんは日本の未来を20年前から予知していたのかもしれない。そんな風にも思った。
見えないものの恐怖を感じてこれから生きていかなければならないんだ・・というこの映画が本当の話になってしまった!と絶望感を感じた時でもあった。
そして多くの人があの地震で起きた津波で流されて亡くなった。
あの津波の映像は今でも忘れない。正直にいうとショック過ぎて何もやる気が起きなかった時期でした。
でも私は生きている。何かできないかな?
といろんな物資を東北にダンボールで送ったときもある。
偽善と思われるかもしれないがそれでもなにかしたかったのです。
そして、ある日ネットで震災ボランティア活動の募集を見つけたのです。
それは福島の道路が走れるようになって解除してからの出来事だった。
私と彼女はその2泊3日のボランティアに参加することになった。
それは5月くらいだったと思う。夜の8時くらいに都内からバスで出発し朝に岩手県釜石市の宿舎に到着し、それから活動開始というものだった。
そのボランティアには東京からも40人くらい参加している人がいました。
バスの中でも皆それぞれの面持ちで被災地へ向かっているようでした。
1日目は、着いてからまず釜石の市街地へ行き、
津波被害のあった家屋の清掃をすることになりました。
そこまで行く道の途中でトンネルがあったのですがそのトンネルの壁に津波がここまできたんだな・・と思われる跡があったりしてその跡を見ていると結構高い位置まで来ていて苦しくなった。
海沿いの方へ抜けるともう、街ひとつがない。
まるで原爆でも落とされたように何もなかった記憶がある。
大きな船がビルの上に乗っかっていた。
それを見て津波の恐怖を知った。
現地に行くまでに何度か余震があった。そのたびにバスは止まり安全確認のために30分くらい止まるのであった。なかなか現地につけなかった記憶がある。
やっと清掃する現場に着き家に入る。泥だらけの家に入った。結構高台の家なのにここまで津波がきたんだな・・・と思うとこれはテレビでは伝わらないものがあった。
これがあの東京で起きていたら?と思うと怖くなった。
ふと、その家の壁に貼ってある時計に目を向けたら津波が来たであろう15時20分で時計の針が止まっていた。きっとこんな高台まで津波が襲ってくるとはこの家の人も思っていなかったのかもしれない。
そんなことを思いながら、わたしは部屋の中の泥だしと瓦礫の撤去をしていた。
その後、高台の上の方に行くと公民館みたいなところがあり
いまだに見つからない行方不明名簿のようなものがあってたくさんの人の写真がと名前が書いてあった。
それをみて人生なんていつこのようなことに襲われるか予想もつかないんだから、生ぬるく生きてる場合じゃないんだな・・と今まで死んだように生きていた自分に少し反省した。
今日生きたくても生きられなかった人もいるんです。
いろんなことを考えさせられた1日だった。
実際に見ないとわからないことがたくさんある。
私はこのボランティア活動に参加してほんとうによかった。
人生を悔いなく生きる、とその時思ったのです。
次につづく・・・