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【社会的養護の社会学】を読んで「家庭的とは何か?」を考える
はじめに
あなたは「家庭的」と聞いてどんなことを思い浮かべるだろうか?
家族全員の料理、掃除、洗濯などといった家事全般を一人で請け負ってくれるような、そんな献身的な母親の姿だろうか。
もしくは、平日は家族のために全力で仕事に励み、休日は飲みに行ったり家でゴロゴロしたりするのではなく、家族みんなをどこかに連れて行ってくれるような、そんな家族想いな父親の姿だろうか。
はたまた、父親や母親の言うことをしっかりと守り、学校の勉強や習い事も自ら真面目に取り組むような、そんな優等生な子どものことだろうか。
家族の在り方も多様化している現代社会において、僕が例として挙げたこと以外にも、例として挙げられるどのような「家庭的」も、それはあくまで「家庭的なイメージ」なのであって、現実とは程遠いものなのだろうか。
「家庭的」という言葉に付きまとう「普通」や「理想」
近年、「男女共同参画社会」や「ジェンダー平等」と言った言葉に代表されるように、2023年度の夫婦共働き世帯の割合は、夫婦のいる世帯のうちの71.1%と、1980年の35.5%と比べて35.6%も増えている(総務省統計局「労働力調査(特別調査)」,2024)。
実際に僕が働いている学童でも、学校に通う半数以上の世帯が登録をしており、夜の遅い時間まで子どもを預けているといったような家庭が多く存在する。
そのため、僕が「家庭的」なイメージとして例に挙げたような「母親=家庭」、「父親=仕事」と言ったような家庭の方が現代では、少数なのではないかと思われる。
そうであるならば、現代の「家庭的」のイメージは、「母親も父親も、仕事と家事の両方をお互いが協力、分担しながらやること」なのではないだろうか。
具体的には、「月曜日と水曜日と土曜日のご飯担当はお父さん、火曜日と木曜日と金曜日のご飯担当はお母さん」や「皿洗いはお父さんで、洗濯はお母さん」といった形だろうか。
どのような協力、分担の仕方であれ、「母親=家庭」、「父親=仕事」が1980年ごろの「家庭的」であるのに対し、現代の「家庭的」のイメージが「母親と父親の仕事と家事の協力と分担」であるとするならば、「家庭的」と言った言葉には、その時代の「普通」や「理想」と言った言葉とも結びつくのではないかと思う。
『他の「家庭的な」家庭は、子どもにプールを習わせているからうちの子どももプールに習わせよう!』、子どもの習い事一つが例として挙げられるように、「家庭的」な母親であるためにはこうしなければならない、「家庭的な」父親であるためにはこうあらねばらない、「家庭的」な父親と母親の子どもはこうでなければならない。
「家庭的」と言う言葉に内包された「普通」や「理想」に、知らず知らずのうちにどれだけの人が縛り付けられているのだろうか。
親と暮らせない子どもにとっての「家庭的」
ここで少し話を変えて、今回読んだ【社会的養護の社会学】の本の内容から、社会的養護=親と暮らせない子どもにとっての「家庭的」について考えたいと思う。
僕自身の経験も踏まえていえば、社会的養護の子どもにとっての「家庭的」には、「家庭的ではないこと」=「普通ではないこと」、「理想的ではないこと」が前提としてあり、その前提がある中での「家庭的」とは何か、と言ったことが考えられるのではないかと思う。
少し話がそれてしまうが、本書でも「普通ではないこと」が社会的養護の子ども達にとってのスティグマ(烙印、恥辱)になるということ、「家庭的」であることを理想化することにより、社会的養護の子どもは「普通であること」を強く意識するようになってしまうということが述べられていた。
「家庭的ではないことを前提とした家庭的」とはどのようなことなのだろうか?
このことについて、本書では一般家庭の「機能」に着目して8つのことが「家庭的」として挙げられており、それをまとめると「家庭的な機能」とは、大きく「安全」、「教育」、「発達」、「生活」なのではないかと思われた。
つまり、「家庭的」でない場所における「家庭的」について考えることで明らかになった、「家庭的」であるということとは、『「安全」、「教育」、「発達」、「生活」の4つが保障されていること』なのではないだろうか。
「家庭的」であることに必要な「安全」、「教育」、「発達」、「生活」とは何か?
「家庭的」であることに必要な「安全」、「教育」、「発達」、「生活」とは何だろう。
一つ一つの言葉の意味について例を挙げながら見ていきたいと思う。
「安全」については、交通安全や安全運転、安全確認など、主に道路における車や歩行者、公共の場におけるルールや決まりといった物が思い浮かぶのではないかと思う。
だとするならば、「家庭的安全」とは、家の中のルールや規則のことを言うのだろうか。
「教育」については、学校の授業や勉強、習い事などが思いつくのではないかと思う。
だとするならば、「家庭的教育」とは、学校の宿題や習い事の自主練習などのことを言うのだろうか。
「発達」については、身体の成長や心の成長、また「教育」とも同じだが、勉強や習い事のスキルが上達することなどが思いつくのではないかと思う。
だとするならば、「家庭的発達」とは、家での身体や心の成長のための活動、訓練や練習のことを言うのだろうか。
「生活」については、服を着ること、食べること、寝ることなどが思いつくのではないかと思う。だとするならば「家庭的生活」とはそのまま家庭での衣食住のことを言うのだろうか。
このどれもその通りなのではないかと思う。
ただ、僕自身は、「安全」、「教育」、「発達」、「生活」と言う言葉を聞いたときに、「支援」や「ケア」と言う言葉を連想した。
別の本からの引用になってしまうが、【利他・ケア・傷の倫理学】(近内悠太著)によると、「ケアとは、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為主体全体のこと。」と言うことが述べられていた。
つまり、「家庭的」であることに必要な「安全」、「教育」、「発達」、「生活」が「ケア」と結びつくものであるならば、「安全」、「教育」、「発達」、「生活」は提供する側である親の意向や期待によるものではなく、それを受け取る側である子どもの側にとっての大切なことであるべきなのではないだろうか。
社会全体が「家庭的」であること
ここまで「家庭的」と言う言葉について、「家庭的」と聞いて思い浮かべることから時代によっての「家庭的」のイメージ、そこから「家庭的」と言う言葉に、「普通」や「理想」が含まれていること、「家庭的」ではない場所から見えてきた「家庭的」とは何かについて、「家庭的」であることに必要な「安全」、「教育」、「発達」、「生活」が「ケア」と言う言葉と結びつくのではないかと言うことについて見てきた。
ここでもう一度、現代の家庭の在り方について見てみようと思う。
2023年度における夫婦共働き世帯の割合は、夫婦のいる世帯のうちの71.1%であった。また、核家族化の進行も著しく、1世帯の平均世帯人数は、1986年には3.22人だったのに比べ2022年は、2.25人であるということも報告されている(厚生労働省,2022)。
そのような現代社会の中で、家庭の中だけで「家庭的」を子どもに与えることは可能なのだろうか。
また、毎日の自分たちの生活だけでも精一杯の中で、父親や母親といった立場の人たちが一方的に「家庭的」を子どもに与える側なのだろうか。父親や母親といった人たちも本当は、「家庭的」が必要なのではないだろうか。
もし、「家庭的」であることが家庭の中で難しく、また「家庭的」であることが子どもだけでない全員にとって必要なものであるならば、家庭といった枠組みの中だけでの「家庭的」ではなく、そこに関わる人全員のグループやコミュニティ、自治体、社会全体の中で「家庭的」が作られていくことが必要なのではないだろうか。
地域で、子ども達にご飯を提供する食の支援(子ども食堂)や子ども達にとっての自由な遊びの場(プレーパーク)、それを共に支え合う大人たち、そんな「家庭的」な場が地域や社会にもっと増えていったらいいなと僕自身は思います。
今回僕が考えたような「家庭的とは何か?」についてみんなで考え合うような場も地域や社会にあれば、そんな地域や社会はとても「家庭的」といえるのではないでしょうか?
参考文献
土屋敦,藤間公太.(2023).『社会的養護の社会学』
総務省統計局.(2023),労働力調査
https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2024/04/c_01.html
厚生労働省.(2022),2022年 国民生活基礎調査の概況
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/dl/14.pdf
近内悠太.(2024),利他・ケア・傷の倫理学-「私」を生き直すための哲学-
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