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喫茶店と散歩、読書その他 西荻窪あたり

暮らしている街の散歩は、どこから始まるのだろう。
ぼくは通勤しているわけではないが、最短の駅までの道は、歩いていて散歩の気分になりにくい。だから、電車に乗らないときは、別の道を選ぶ。

それでも、一度は駅前に着いてしまう。道がそうなっているからではなく、駅を見ると安心するところがある。
ああ、今日も電車が走っている。当たり前がうれしい。
西荻窪は、一風変わった街だ。23区の西のはずれにあり、吉祥寺と荻窪という大きな街に挟まれて、こぢんまりと存在している。そのくせ東西南北すべてにちまちまと商店街が続き、しかもチェーン店より個人店が多い。
一見、時代から置き去りにされた街のようだが、そうなってしまったのではなく、その道を選び取った意思みたいなものを感じさせる。
偏屈ではないが、癖は確実にある。
その象徴が、南口を出てすぐのアーケードのある路地からぶら下がる、ピンクの象だ。

なんだ、これは。
意味など問うな。
なんか、いいじゃん。
いいのだ。いいと思えるひとの街だ。ぼくはとてもよろしいと思っている。
好きな店のいくつかの前を通り過ぎ、住宅街へ折れて、また折れて、お気に入りの古本屋に立ち寄る。
十年ばかり前に、ぼくは大量に本を処分した。大半はブックオフに売り払ったが、講談社学術文庫や文芸文庫の一部、好きだった小説本などはここに引き取ってもらった。
なのに、ときどきここで本を買ってしまう。

この日も、買ってしまった。
川崎長太郎の「淡雪」。だれだ、それ。昭和の冴えない私小説作家のひとりだ。例に漏れず貧乏話だが、それ以上にこのひとは私娼買いの赤裸々な告白を売りにしていた。
西村賢太は藤澤清三を師と仰いでいると喧伝していたが、むしろ川崎長太郎を手本にしていたような気がする。ぼくはどちらの熱心な読者でもないので、あくまでも適当な感想だが。

本を抱えてしばらく歩き、「どんぐり舎」を覗くと、運良く好きな席が空いていた。
喫茶店の多い西荻窪でも、ここは人気がある。よその街なら閉店に追い込まれていたかもしれない、手作り感だらけの雑然とした店内で、それぞれが勝手に寛ぎながら、薄い連帯感を醸している。

ぼくはぼくで、買ったばかりの本を開く。
前に読んだような短編を、やっぱりねと少しだけ呆れつつの肯定感を持って読む。私小説は事実をなるべく隠さず、加工せずに書く小説だから、似たり寄ったりになって、当然だ。作者にシンパシーを持てるかどうか。

ぼくは川崎長太郎が、まあまあ好きだ。
一番好き、というか記憶に残っているのは、私娼買いとは関係ない話だ。
小田原に住む川崎が列車を待っていると、作家仲間の尾崎一雄と出くわす。しばし言葉を交わした後、列車がやってくる。「ぼくはあっちだから」と、尾崎は二等車のほうへ去っていく。
尾崎は人気作家の上、日本芸術院会員で、二等車のパスを持っているのだ。名誉も金もない川崎は、ひとり三等車に乗り込んでいく。
ぼくは尾崎一雄が、まあまあ嫌いだ。
理由は割愛する。
まあまあ自分を好きでいたいぼくは、コーヒーを飲み干すと、混んできた店を出た。
パンを買って行こうと思い立ち、駅のほうに戻って電車の走る高架を見上げた。
まもなく中央線にも、グリーン車(かつての二等車)が走る。たかが八王子まで帰るのに、そんなもの必要だろうか。まあ、乗るひとがいるから、つくるのだろう。
ぼくだって、グリーン車を使うことはある。名誉はないが、川崎長太郎よりは(少し)お金があるので、自分のお金で乗る。
散歩には、二等も三等もない。
さあ、パンを買ったら、うちに帰ろう。

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