『努力』という言葉が異常に嫌いな私が、努力に代わる言葉を考える
「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」
(孔子『論語 雍也第六』より)
このnote努力が嫌いな者の叫びではなく、努力という言葉でまとめられてしまう様々な趣味を救い出すための一歩である。
この記事にたどり着いた人は一度は思ったことがあると思う。
なぜ苦労している人物と一緒くたにされなければならないのか。努力という言葉に落とし込まれることで、まるでそこには苦痛があったように見えてしまうではないか。努力などするつもりもない。ただ楽しいか等やっていだけなんだ。まるで嫌がっていたかのように言うな。自分が望んでやったことなんだ―――
そんな、言葉の類義語と雰囲気に引きずられる思いを解消すべく思いついた苦肉の策が、このnoteだ。
何かのために力を使うよう努めるのではない、愉快で自主的にやりたいと思ったからこそ行っている進化のための活動。そんな言葉を発見したい。
そもそも努力とはなにか
広辞苑を参照すると、努力というものは目標を実現するために、心や身体を使ってつとめることとして定義されている。ここでのつとめるというのは、努めると言う意味であり、「尽くす」という言葉に言い換える事ができるだろう。
由来から考えてみるとよりわかりやすい。
「努力」の「努」は「奴隷」の「奴」から出来ています。「女」と「又」が合わさり「奴」となりました。「又」は「手」のことを表しており、「手で捕らえられた女」という意味です。そこから「しもべ、めしつかい」を意味する言葉になりました。
「努」はめしつかいの「奴」が「力」仕事の農作業をすることから「つとめる」の意味を持つ言葉として出来ました
さらにここではあえて英語に翻訳することで考えてみる。努力は英語に直すとeffortやhard workと訳される事が多い。文脈によっては try とも訳されるがここではパッと見では分かりづらいeffortを取り上げる。
effortの原義は「力を出すこと」で、語源はex(外)とfortis(力)に由来します
ここでは、より「尽くす」という言葉に近いことがわかる。
つまるところ、元々努力という言葉は、苦労や苦役といった言葉の代替品であり、自らの持つ力を消費して行う行動を指していると言えるだろう。
自己責任論と努力のイメージ変化
読者の皆様はご存知かもしれないが、日本には『自己責任論』というものがある。簡単に言えば、「個人の選択や努力によって生まれた格差はあっても良い」というものだ。例えば、「お前が今貧乏なのは努力しなかったからだ」「あの人が今裕福なのは努力をし続けたからだ」といったようなセリフが自己責任論の中には出てくる。
「二〇一六年首都圏調査」(橋本 2018: 12)においては、「貧困になったのは努力しなかったからだ」「努力しさえすれば、誰でも豊かになることができる」という二種類の設問に対し35%がそれぞれ賛成を示していることを明らかにしている。
ここからわかることは、努力が義務であるかのように扱われることがあることだ。この解釈は正しいだろう。努力という言葉は一般にとって美徳であり、するべきものとして思われているかもしれない。しかし、実際の定義に照らし合わせれば努力は元々上から押し付けられて行う義務のようなものなのだ。
つまるところ、そんな言葉を利用して「努力家だね」などと言われても、「権力の犬だね」と言われていると解釈出来てしまうだけだ。(もちろんそのような意図はないだろうが)だからこそ、この努力という言葉に代わる物を用意しなければ、楽しんで努力する者すべてが犬になってしまうだろう。
どういう言葉がふさわしいのか
前文で示したような言葉がふさわしいだろう。
何かのために力を使うよう努めるのではない、愉快で自主的にやりたいと思ったからこそ行っている進化のための活動。
その条件に当てはまるのが、「工夫」という言葉だ。努力を褒めても相手は同じ努力しかしないかもしれないが、工夫を褒めることで、相手はさらなる工夫を重ねてくるだろう。その際に相手を面白がっていると、さらなる面白さを相手から引き出す事ができる。そのような実証例もあるようだ。
ただ、工夫は楽しめないものもいる。工作を楽しめない人物にとっては工夫というものは苦痛だろう。
そこで提案するのが、「工楽」という言葉だ。
「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」
元々名前として作られた言葉ではあるが、努力に代わる言葉として最もふさわしいと感じた。楽しいからこそ出来る努力にこそ、工楽という名前つけてあげよう。人のやりこみすぎた趣味には、オタクではなく工楽した結果と呼ぼう。真に趣味と苦楽を共にするというのは、こういうことなのだ。
これからの読者が、努力しろなどと言わず済むことを心より期待する。
参考文献ならぬ発端文献
川端健嗣(2019)『自己責任と努力の不均衡の規定構造』(成蹊人文研究 第 27 号)<http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/1125/1/jinbun-27_81-96.pdf>[2021年3月22日閲覧]
木下光生著『貧困と自己責任の近世日本史』(評者:松沢 裕作)https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/721_06.pdf