無としての自我、深本体

疲れてきたよね…。
ダラダラと長く続いてきた人類の歩みの中で一瞬を担当したのが私だった、
脅迫的に浪費される時間の中で、主導的にそれを扱うこともできずに多くの意識は形骸化していった。
今思う事は、その一瞬の無意味さである。
まるで突発的に駄々をこねた子供のだだのようにその中には純潔の我儘と青春の謳歌がある。
そして偽りかのようなその一瞬にすら意味を求めてしまった愚かさと滑稽さ。
そう言って、いい加減この体から自我を抜き去りたいとさえ思うようになってきた。
別にそれは死とはまた何か違う

考えてもみれば所詮この体は塊と信号の寄せ集めに
付け焼き刃的に自我が引っ付いてる程度の代物で
それはそれは何ともギャグ程度に陳腐な作りで、
それすらも仕方のない事なのだが、
何分絶対的かつ高圧的に指図してくるこの自我は抗いづらく、皆さんこれらの我儘を聞くしかなく…。
しかし問題は、私のこの特異な自我が囁くのはいつも狂人じみた言葉の数々で否が応でも言いなりにならざるを得ない。
だからこそ今こんなおかしな文字の羅列を作っているわけで…。
別段そこから生み出される意識にしたって別に大層なものでもない。
なんて事はない、そもそもそれは『分相応な自我』が生み出す、束縛された所有物でしかない。
もうそうなったら私の本当のオリジナルは既に無に設定されていて、その無が、この全てに対し何らかの感受性を得る為に自我が設定されているようにさえ感じる。
寧ろそうでもしないとこの人生と言うものは全くもって割に合わない。
圧倒的な隙間の無さ、
全てにおいて自我の介在を許し何から何までいちいち自我由来の何かを感じさせられる。
これには、何処か鬱陶しさまであり、
やはりこの面倒な感受性により得られる、人生全ての煩わしさは、満たされる事に対し割に合わないと感じる。

分解…。


真のオリジナルとしての無

つまりは潜在意識よりさらに深くに存在する固有の無
のある世界はより少ない概念の中での活動により還元されていて、今ほど苦しむと言うことをせずに生きる自分がいる。

だからそのワールドの自分にまで最低でも還元されたい、
そう言う意味で自我を抜き去りたいとすら思うのだとおもう。

少ない概念とは色に近いのだと思う
カラーワールドとでもいうのかな?

①まず私の色は無の世界では何色の要素なのだろうか?
②その色は物事に対しどのような感受性を得やすいのだろうか?
③その感受性がもたらす精神の構造はどのような病に犯される特徴があるのか?
④自我とは既に病に犯された状態で発現しているのでは無いのだろうか?
⑤賢く聡明な精神も堕落した精神も異常をきたした精神も結局のところは特有の病に振り分けられ発言させられた病に過ぎないのではなかろうかと。

生命というカルマの写身は愚かであるそれぞれにお前は愚かだとただ言ってくれるだけで、
それには人も物も関係はなく、
無形の、無色の無から投影された何処か分子構造にも似ていて、
それぞれの存在の狭間に存在する受容体がわたしたちにそれを見せているのだろう。


無である自我から提供された因果


因果のベース


いや正確にいうなら、
私の真の目は私の内部にはなく、
私と全ての存在の間において形成された副産物(受容体)なのだろうなとも実感できる。

このような見方が病的かどうかについては
人体を形成する物質の何らかの疾患というよりかは
ただみんな得体の知れない大きなエネルギーに引っ張られてるだけで、
実際には頭良さそうに話す人も、
精神が壊れておかしくなった人も、
そのエネルギーに素直にひきづり回された結果で、
そうみたら、
それぞれがそれによる症状を発症してるだけで、学者も精神異常者も、何ら変わらないとも思える。
結論は社会が受け入れ切れたかどうかの違いでしかなく、いつだって薄皮一枚なのだと思う。

そもそも他者がいない事には自らを測定するのは不可能
しかしよくよく考えるとなんかおかしい、
他者との違いでしか自分を断定できないのがそもそもおかしい
無論研ぎ澄ませば他者は必要なくなる、
自分を測る事においてもそうだ
万物は自分を写す鏡とはよく言うが、
これは万物に対する知覚が、自らを測定する材料という事に他ならないのだろうけど、
それはあくまでも外部に意識が自我が広がってることの表れなんだと思う。
でもこれは不思議な事で、
うち側に織り込んで仕舞えば、自我すら疑わしい、
無の中に沸騰するように現れ出す気泡のように自我が現れる。

わかりやすい表現をするなら、
無とは水そのもので、
温度が上がる事で変化して空気を生成し、水はなくなる、
いずれ全部蒸発して、本来の無の自我は無くなって、すべてが自我として大気に溶け込む。

『生帯びた瞬間無から噴き出した自我は蒸発し、この世界に溶け込んで他の自我と混ざり合ってしまっている、
そして物質間に存在する目が受容体として視細胞と反応し、自我を感じさせられている。』

そんな感じだ…。


それでも人間は自我がそもそもそなわったものだと感じるだろうが、
多分こんな感じで無の中から湧き出る気泡一つ一つがそもそもの自我の欠片なのだと思う。


結論としていうならば
そもそも自我は無から一時的に付与された性質であり
自動的に感じさせられてるようにすら思う。
言い直すならオリジナルとしての無的性質の深なる本体が世界に対し、感受性を目的として自我を設定し、
全てと自我の間にある目によりそれを獲得する。

鼻っから自分すら何らかの設定でしかなく
本当はちゃんとした無が個人の所有物として
やはり存在してくれてるはずなのだとも思う。
変な言い方をすれば、
そうでもないと人間はやはり割に合わないよなと思う、その存在が
人の認識のできない概念の中での自我
潜在意識のさらに深い、概念的な自我を構成している要素
その限られた、純潔な成分としての自我
深本体?的な
個人の特徴的性質?に振りわけられているため、
ここよりも苦しまないで済むことができている
私が住む世界。
逆に言うと、そこの性質が特徴としてモロで出てるひと達は
やはりこの世界はしんどいと思う
細分化され、分断され、定義されてしまうから

まぁそれだけ素直なのだと思うよ、やはり

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