イマイチときめけてない話
近頃、暮らしていてほとんどときめきがない生活をしている。街を歩いたり、ものを食べたり、景色を眺めるなどしても、これいいな、とか、感動したりすることがあまりないのである。TVや映画を見ても、同様である。生活の潤いを考えると割と切実な問題なのだが、はっきりとわかっていることが一つある。それは、私はどうも「日本の共通感覚に共感出来ていない」らしいということだ。
前置きが長くなるが、要因分析の根幹であるため、まず私の自分語りにお付き合い頂きたい。
私は帰国子女である。中~高校の間、ヨーロッパで暮らしていた。在住邦人の数が少なかったため、通っていたのは日本人学校ではなく現地のインターナショナルスクールであった。
両親は根っからの日本人、さらに幼少期は日本育ちなので、根本的には、勿論、私が日本人であることは間違いない。
しかし、思春期……つまり後天的文化形成期においてヨーロッパで過ごしたために、文化的な感覚ではかなり外国人的部分があった。あるいは、アメリカ帰りに"カブレ"た両親の教育方針によるところも大きかったかもしれない。
日常生活での文化感覚のズレによる違和感は、ひとつひとつは小さくとも積み重なれば非常に大きなストレスとなる。ポジティブに捉えれば、それだけ発見や気付きがあるとも言えるのだが、ネガティブに捉えれば、普通の人より単純にストレスが多い。
帰国子女だからこうだ、とか、日本人に同じ悩みがないと言うつもりはない。同じ要因・因果関係ではなくとも、セクシャルマイノリティや、外国人が日本で暮らして感じるストレスや違和感に近しいものではないか?と想像されるし、日本でも、西と東で相当の文化差がある。よくある嫁姑問題などの世代間ギャップも、分類は違えど類似の悩みであると言えよう。
少なくとも私にとって、この「違和感」はネガティブなストレス(つまり不快)である。抽象的な話が続くと分かりにくいので、分かりやすい具体例を挙げる。
①日本のアイドルの良さが理解出来ない。イケメンの基準もよくわからない。むしろ不快。
②日本で売っている女性向け衣類のおよそ9割は欲しくないし良いと思わない。
③流行りの食べ物を食べても全く感動しない上、評判の悪い(例:あのケーキは甘すぎる、量が多すぎる等)食べ物の方が好き。
もう、性格が天の邪鬼だからそうなのだと言われても良さそうだが、特に流行りだからとか、人がどうこう言ったから評価を変えたりなどはしていない。これはもう、もはや、感覚の問題なのであろう。
こういったストレスの捌け口として、私は絵を描いたり、文章を書いたり、色々とモノを創るのが好きだ。わざわざ創造する理由は明確で、市場に欲しいものがなく満足出来ないからに他ならない。少なくとも私は、国内の所謂「みんながすきなもの(=売れ筋、流行)」あるいは「日本で簡単に手に入るもの」に、あまり共感出来ないらしい。ごく稀に流行りに乗れても、なぜか同じものが好きなのに話が噛み合わないことも多い。よくよく観察すると、今度は受容の仕方が違うのである。
翻って、まさにそれゆえに、私は日常生活におけるときめきが、非常に少ないと感じているのだった。
面白いことに、広告は日本製の方が理解出来る。ただ、理解出来ても共感は出来ないため、ヨーロッパかアメリカ辺りの流行の方が、まだ肌に合うのも確かだ。自分は感覚的にヨーロッパ人だという理由は、この辺りにある。
このような好き嫌いは、とても主観的な話なので、人に言ってどうこうしたり、してもらいたいわけではない。
ただ、日本の商業的なターゲットの枠から大幅に外れてしまっており、日本で街を歩き、ウィンドウショッピングをしても、欲しいものや買いたいもの、食べたいものがあまりないというだけの話である。
また、ヨーロッパでなら全て満足なのか?そう問われれば答えはノーだ。しかし、まあ、頻度と程度の差で言えば間違いなく、私はヨーロッパでのショッピングの方がまだ満足出来るし、楽しんでショッピング出来るのであるが。(いっそ差別的であったり、ぞんざいな店員の態度すら、そちらの方が心地よいのであるから大分重症かもしれない)
こういう日々の違和感を、身近な他人に表明してもなかなか分かってもらえず、息苦しく感じていたが、インターネットの発達で捌け口が出来、随分呼吸しやすくなったように思う。
願わくば、ここからさらに日本が多様性に寛容な世の中となり、多少、共感してもらったり、心なしか、欲しいものが増えたらいい。そんな気持ちで投稿してみた次第である。
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