経済と友人
どうも周囲にお嬢様やお坊ちゃんと言えるような裕福な友人が多く、そういったコミュニティとそうでないコミュニティの差について考えてさせられることが多いのだが、一番大きい違いは、「妬みや僻み」のような負の感情をほとんど感じさせない交流になるかどうかな気がする。
これは、捉え方も大きく関わっているのかもしれないし、そもそもの経済的余裕がそうさせているだけかもしれないが、前者は後者に比べて相手を不快にさせるタイプの自慢話や、人の悪口のような不快にさせる要素が少なく、プラスの気持ちのまま会って別れることが多いのだ。これは、自慢話がないという話ではなく、話されても不快にならないという意味に近い。
最近はそういった品の良いコミュニティにのみ顔を出すようにしているためか、あまり遭遇することはないのだが、世の中には恐ろしく僻みたらしく、嫌味と皮肉を言わないと生きられない質の人間もいる。世をすね、被害妄想の塊のような人だ。
面白いことにそういった人はそういった人同士でコミュニティを築くので、やたらとギスギスした集まりになっていることも多い。人の言うことに揚げ足を取り、自分が自分がと会話の主導権を奪い合うのだ。
貧乏性がそうさせるのかとも思われるが、裕福な環境で育った人であっても、社会人になると独り立ちして(一時的にでも)質素な生活をしている人は多い。やはり環境だけの問題ではなく、心の持ちようも大きく影響しているように思われる。
皮肉なことに、経済格差によってそれらのコミュニティはそれぞれが断絶されている。所属する団体の階層を変えることは、思いの外難しい。給与が低い間は、所得の低いなりのコミュニティになりがちだし、無理に背伸びをしたところで支出がただ増えるだけである。
しかし、心の持ちようによって、環境が悪化した時の反応は全く異なる。どうしても素地となる土台の部分における「余裕」が、より強いパニックを呼んだり、逆に冷静に忍耐強く待つことが出来るようにさせるからだ。
独り立ちをして支出が増えた際、「お金が足りないようだ。どうやって節約をしようか」と冷静に工夫を凝らしたり前向きに考えられるか「こんなにお金が足りない!どうしよう!」とパニックになるのとでは、環境の建て直しまでの期間が全く異なる。
これはやはり、元を辿ると経済的な余裕によって生まれるのだろうか?
ただの「贅沢が出来ること」と、精神的余裕というものは、近いが少し違うようにも思え、今度じっくりと腰を据えて考える時間を取りたいと思うのであった。
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