村上春樹『納屋を焼く』考察

 この作品は、村上春樹の短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984)の中に収録されている。

 この短編には、「僕」と「妻」と「彼女」と「彼氏」が登場する。

 「僕」は既婚者だが、ガールフレンドの「彼女」と交際している。「彼女」はパントマイムを習っている。パントマイムは”ない”ものを”ある”かのように演じるものだ。彼女は「蜜柑むき」のパントマイムをよくするが、そのコツについて、「そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ」と答えている。蜜柑は愛の比喩だろう。彼女にはボーイフレンドが複数人いたが、彼女は愛がないことを忘れることで、ないはずの愛があるかのように演じることが上手なのだ。

 「彼女」はアルジェリアに旅行に行き、三か月後に正式な「彼氏」を連れて帰ってきた。しかし、正式な彼氏と思っているのは「僕」の主観かもしれない。ある時、「彼女」と「彼氏」が「僕」の家に遊びに来る。そこで、「彼女」が酔いつぶれて寝てしまった後、「彼氏」は「納屋を焼く」趣味があると「僕」に告げる。納屋とは何のメタファーなのか。ほとんど見向きもされない納屋とは、第一に夫に愛されていない「妻」のことであろう。「彼氏」は世の中にはそのような納屋が多くあり、自分に焼かれたいと思っているように感じると言う。「彼氏」は納屋を焼くことは犯罪行為だと自覚してもいる。だから、おそらく夫に愛されていない妻をターゲットにして、浮気していることを告げ口して嫉妬の火を焚きつけ、優しく口説いては情欲の火も焚きつけ、女の純真な愛を焼き尽くすのだろう。悪い趣味だ。ただし、「納屋を焼く」ことがしたいのであって、「火事」(家庭を壊すこと)まで起こすつもりはないのだと言う。

 「彼氏」は今度あなたの近くの納屋を焼くと言うので、「僕」は地図を購入して、近所の納屋をすべてチェックして、標的になりそうな納屋を5つ選んで、毎日のランニングのコースに設定して、焼かれていないかチェックした。用意周到に、綿密に。しかし、いつまで経っても納屋は焼けない。久々に「彼氏」に会った時、「僕」は納屋は焼いたのかと訊ねた。「彼氏」は焼いたよと言う。でも、焼けてないはずの納屋はちゃんと存在しつづけている。おかしい。それに、存在しているはずの「彼女」の姿が見えない。ある(存在している)はずのものがなく、ない(存在していない)はずのものはある、という逆転的現象が起こるのである。「彼氏」は、綿密にチェックしていたとしても、近くにありすぎて見落としているのだと言う。「僕」の妻の存在は、この小説ではほとんど語られないので、読者も見落としてしまいがちで、「納屋」とは「彼女」のことだとミスリードされやすいだろう。例えば、きっと「彼女」は「彼氏」に殺されてしまったのだろう、とか。しかし、そうではないと思う。「僕」は近くにある愛に気づかず、気づこうともせず、見当違いなものに目を向けているのである。「彼氏」に妻を寝取られた事実にも気づかずに。

 しかし、「彼女」の姿が「僕」からも「彼氏」からも見えなくなってしまったのはなぜだろうか。二人にはその理由が分からない。「彼氏」が「妻」に夫の浮気を告げ口し、夫の見えない水面下で「妻」が「彼女」に夫から離れるように計らったという説も考えたが、恐らくそうではない。実はこの「彼氏」もまた、男であり、男であるがゆえに、物事を表面的にしか見れていない。「彼女」はそもそもボーイフレンドを複数抱えている。それに、愛はないのに愛があるかのように演じることに長けている。愛はないことをはじめから知っていて意図的に忘れて交際することのできるような女だ。それなのに、「彼氏」は彼女の愛を信じてしまっている。さらに、「彼女」は「僕」をとても信頼していたとさえ思い込んでいる。「僕」も、「彼女」と「彼氏」は正式な恋人だと思い込んでいるし、彼女の動機を何かもっと本能的で単純なものだと考えている。愛があると思い込んでしまっている。盲点である。こうして見ると、「彼女」に納屋を焼かれていたのは男たち自身の方かもしれない。「彼女」は、そんな男たちに飽きて、別のボーイフレンドの元へと去ってしまっただけなのではないだろうか。男たちはそんなことが起きていることに何も気づかず、不思議なこともあるものだなと思いつつも、これからも表面的に生きて、歳を重ねていくのだろう。


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