居場所というキーワードの居心地の悪さについて。
【誰でも来れる場所は居場所にならない】
子どもの居場所、子ども食堂、サードプレイス、などなどここ数年「居場所」に注目が集まってますよねぇ。フリースクール、コミュニティスペースなんかもその潮流にある気がします。
そしてよく見聞きするフレーズが「安心安全」と「誰にでも開かれた」です。
これって本当でしょうか。
まぁ、謳い文句が「危険です」「敷居が超高いです」では集客もままならないでしょうし、いいこと、のように思えますよね。
安心や安全を謳う理由はなんでしょうか。低ホルムアルデヒド?スプリンクラー設置済?前科持ちがいない?
見えにくいんですよね、安全って。
防げなくてインシデント起きたら責められるけども、日常通常平常の際には見向きもされない基礎的な部分。
だから何をもって安心安全と謳うのか、はそこが何に気を使い重点を置きどうしたいのか、が見える点なのだ、とも言えます。
「開かれた場所」についても、疑問があります。
誰でも来れる場所を目指したがるんです、言いたがるし。数値目標とかあるんでしょう、なくてもより多く人が来ることが評価が高いとされる風潮。
どなたでもお越しください。
お困りの人気兼ねなく入ってきて。
みんなで楽しく過ごせる場所です。
↑こういう謳い文句もコピペかってくらい見ることが多いです、がこれも甚だ疑問。
例えば困った人がシェルター的に身を寄せたい場所として機能するなら「そこに来れない人」を作らなければ、安心して居れないですよね。
みんなと一緒にいれないから学校行ってない(行けない)子にしてみれば、みんなが楽しくしてる場所に自分が居る事ができるかとても不安にそしてストレスに感じるでしょう。
子ども食堂にガチのロリショタ親父とかは関わらせても近づけてもいけないのです。
誰かが安心してその場に居れる為の機能は、誰にでも開放、ではなく、誰をブロックしてるか、が重要なのです。プロテクト、と言うても良いかもしれません。
不安や恐怖、怯えてからの脱却が安心の材料なのですから、それらの原因になる人から守る必要があるのです。
場づくりや運営に携わるとき、多くの人に知ってもらいたいし、利用してもらいたい。
それはとても大切な動機ではありますが、本当の意味で必要な運営は、謳っている文句と真逆の判断や行為をしなければ出来ない。ということです。
楽しく明るいアミューズメントパークには正確で精密な計算と戦略でびっしり埋め尽くされている。自然に、勝手に、適当に配置されたものなど一切ない。それと同じです。曖昧に、思いつきで、好きなように、などで他人のための居場所なんて作れるわけがないのです。