ニーアオートマタと、秋の空
明日は、中秋の名月らしい。
だから、今晩の間に感傷に浸ろうと思う。
現在、ニーアオートマタがアニメになった影響で、ヨコオタロウ作品にハマり直している。
ヨコオタロウ作品が好き。
と言いたいが、オートマタを全回収した程度で、レプリカントも詰んでいる。
というのも、ヨコオタロウが作る作品は確かに面白いのだけれど、圧倒的に重たいのだ。
面白いのが分かりきっている。
だからこそ、この先に訪れる無数の涙の数を考えると、どうしても躊躇してしまう。
だが、その躊躇は甘えだ。
この先、訪れる心の脈動に、今の自分では耐えれない。
そんな、欠陥した情緒の確信。
なので、ゲームをせずにオートマタのアニメを見ている。
ニーアオートマタは美しく、切なくて苦しい。
だが、その悲しさに絶望はなく、むしろ優しさや愛情すら覚える。
憎しみを、憎む私にはこの上なく、あの冷たい機械達の涙は暖かく、そして、止まる事の無い争いの性を知らしめられる。
だが、私の心に怒りはない。
むしろ、清々しさと心地良さすら覚えるのだ。
雨が降り続けた空が、青く、何処までも高く広がった夏の夕暮れのように、心は何処までも健やかなのだ。
流した涙は露知らず。
だが憎しみを抱く事すら、憎たらしく思えるその物語は、優しく暖かい。
面白すぎる作品は、触れるだけで色々考えてしまう。
私は、生命の冒涜が嫌いなのか、命を軽んじる生命体が嫌いなのか、「あぁ嫌だ死にたい」が口癖のこの口が憎いのか。
永遠に惑うこの世の端で、今日も夜を怖がり、肩を震わせ、憎しみを憎しみ、世界に愛が訪れる希望だけを耳にしたいと、口走る。
その震える唇は紛れもなく、自分だけのもの。
だけどその事実こそが、自分と世界の壁を何処までも高く見せて、とてもとても悲しくなる。
誰かと寄り添う事を望む肩は、今日も布団の中で震えている。
その両肩のどちらか片方に、もう一つ並ぶことを月に願いながら。