物語 根の国(最終回)
★根の国
「お昼だよー」という声にボクは明るく温かい場所に引き戻された。
「ランチ頼むねー」
ボクはふわりと立ち上がると
ダウンパーカーをひっかけて向かいの喫茶店に向かった。
タナカさんと向かい合ってホットサンドに手を伸ばすと
自分の薄汚れた指が見えた。
(染みついてしまった)
うつむいて自分の指を見ているボクにタナカさんがぼそっと言った。
「そのうち自然に落ちるから」
そして
「ヤカンがきれいになったね、ありがとう」
と言って「にゅいっ」と笑った。
そうだ・こんなに洗っても落ちなかったんだから・もういいんだ。
憑物が落ちたようにボクは熱々のホットサンドにかぶりついた。
黒コショウの香りが温かく鼻を抜けて溶けたチーズが舌を焼いた。
そこに一口熱いコーヒーを飲み込んだら
なんだか胸がいっぱいになってきた。
ボクはゆっくりと息を吐いた。
ボクがトレーを返して戻ってくるとタナカさんが
「珈琲もう一杯飲みたくない?」と聞いてきた。
ボクはにっこりして「はい」と言った。
ごりごりごりとハンドルを回しながら
これはタナカさんからあの話が聞ける、ということだなと思った。
タナカさんは珈琲を一口飲んで話し始めた。
ボクが最近出かけているのは縄文時代なのね
ものすごく太い柱の跡が見つかった遺跡があってね
で、実際どんな建物だったのか見てやろうと思ったわけ
まずはその建物ができる少し前に行って村の人たちと馴染もうと思ったのね
塩をお土産に持っていったら村のみなさんよろこんでくれてね
長老のオヤジさんの家に居候させてもらったわけよ
で、なんだかんだと色々な暮らしのお仕事を見せてもらったりしていたらね
オヤジさんの奥さん、おっかさんが風邪ひいてひどい熱を出してね
あっさり亡くなってしまったんだね
長老と言ったって今なら中年なんだけど縄文時代の寿命と言えば寿命でね
オヤジさんの様子があんまりかわいそうで見ていられなくてね
(ボクは父さん母さんのことを思い出した)
おっかさんが亡くなった晩はものすごい嵐でね
朝になったら木立の中がぽっかりと空いていてね
見に行ったらものすごく大きなクリの木がひっくり返っていたわけ
その木の根っこがね、太い根っこが土を抱えて
「うわーっ」と持ち上がっていてね
その下のところは大人が何人も入れるような大きな穴になっていてね
で、オヤジさんはその大きな穴のふちにずうっとしゃがみ込んで
そこをぼんやりと見ていたんだ。
ボクはいたたまれなくなって一旦こっちに戻ったんだけど気になっちゃってね、またそのちょっと後に行ってみたのね
そしたらオヤジさんたちがその大きなクリの木を4本の丸太に切って
地面に大穴を掘って柱みたいに立てたんだけど
一本は根っこが上になるようにして立てたんだよね
それがすごい迫力で地面からもじゃもじゃの頭が生えているというか
アフリカのバオバブの木みたいなものすごく奇妙なフォルムでね
それが大人の背にも届かない低い柱だったから余計にね
まあその太い四本柱に簡単な屋根をかけてね
柱が太くて短い八畳間くらいの奇妙な「あずまや」ができたんだけど
まるで建物が地面にめり込んでいるみたいだったんだね
そこに「すのこ」みたいな台に「菰」に包まれたおっかさんを載せて
四つん這いで運び込んでね(もうひどいにおいだったんだよね)
オヤジさんの手はもう、固いマメがいくつも「めくれて」いてね
娘夫婦と並んでずうっとそこでしゃがみ込んでいたんだね
これって「殯」だと
あ「もがり」って知ってた?
オヤジさんはおっかさんが死んだ晩にひっくり返った大木を使って
地の底に通じる「家」にしたかったんだと思うのね
あの太くて深い柱の「家」は地上を生きて歩き回る人のためじゃなくて
横たわる死者のための「家」でね
「根の国」の入口なんだと
そこまで見届けてボクは戻ってきたんだけど
…
もしかしたら
ボクはおっかさんに何か感染させてしまったんじゃないかと思うんだよね
ボクたちには何でもないモノでも彼らには致命的な病気だったんじゃ―
「違いますよ!」とボクは遮った。
「もしそうなら感染したのが一人だけというのは不自然です」
「おっかさんはもう年で免疫力が下がっていたんですよ」
「だからそこの普通の病原菌とかウィルスとかに感染したんですよ!」
「ほら細菌性髄膜炎とかえーと急性肺炎とか」
ボクはそう言い切ってから自分で驚いてしまった。
タナカさんもちょっと驚いてボクの顔を見ていたけど
それでもやっぱり「みだりに」違う世界に行ってはいけないのじゃないか
と言った。
ボクもそう思った。それにその逆だって。
向こうから何かを持ち込んでしまうことだってあるのじゃないか。
すべての調査は「迷惑行為」なんだ。
だけどボクにはどうしても一つだけ確かめたいことがあった。
この数日の間に色々聞いたことと今までのことがつながりだして
自分の中でぼんやりと形になってきていたのだ。
「タナカさん、それでもボク、どうしても行って見たいところがあるんです」「できるだけ現地の人と接触しないで見るだけ見たいんです」
タナカさんは優しい笑顔でうなづいた。
ボクは手足をよく洗ってアルコールをたっぷりとすり込んだ。
タナカさんの「衣装」を借りてガスコンロの前に立って
自分が読んでいた古文書の時と場所に行きたいと一心に念じた。
あれを書いた人に会いたい。
その人はきっと―
「うおおおおっ」と風が吹いた。
暗闇の中に木立が見えて家と人が見えた。
ボクはここに来たかったのだ。
ボクの足の裏が生暖かい地面に着くと砂粒が当たってちりちりとした。
家の横に男が三人いた。
一人は地面に胡坐をかいて筆を持ち膝の上で一心に何かを書きつけている。
その人は山伏のような恰好をしていて半分以上白髪になったくせっ毛を首の後ろで束ねていた。家の壁の脇に「つづら」が置いてある。
その人の両脇にしゃがみこんだ二人が熱心にその手元を覗き込んでいる。
ボクはそっと目立たないように後ろに回ってそこを覗いた。
やっぱり…!
見るなり心臓がバクバクして頭に血が上った。
ボクはこの文章を読んだことが「あった」。
今この人が書いているこの先を「覚えている」。
これはボクが解読した文章だ。
間違いない。
ボクが解読した古文書には「吉之助記」とあった。
ボクはずっと「よしのすけ」と思い込んでいた。
でも本当は「きちのすけ」だったんだ。
タナカさんのおじいさんの吉之助さんがこの時代に来てこの時代を記録していたんだ。
どうりで紙や墨がひどく古びていたはずだ。
戦前の昭和の文章を千年前に書いていたんだから。
そして吉之助さんが来たのは千年後にタナカビルヂングが建つ場所
つまりボクたちが住んでいるこのマチだったのだ。
遠くに見える山々はアンテナは立っていないものの見慣れた形をしていた。
ボクはその場をそうっと離れた。
吉之助さんはこの記録を書いた帳面を後の世に伝えようとして
ちゃんと千年残るように和紙に墨で書き残したのだ。
そしてどうにかしてあの東北のお寺に届けたのだ。
あのお寺が千年後に残っているのを知っていたから。
書き物を見ている男たちは時々何かしゃべっていて、タナカさんに似ている人はうんうんとうなづいたり何か返事をしながら書く手を止めなかった。
吉之助さんはここに何度も来ていたのだろう。
そしてここの人たちが大好きになったのだろう。
三人の様子を見て何だか温かい気持ちになった。
吉之助さんはここで幸せだったんだ。
だけど息子さんを放り出して逃げ出しちゃあいけないでしょう。
そうだ
逃げ出しちゃあいけないんだ。
でもボクはもう大学に戻る気はなかった。
ボクはタナカさんの待つ部屋へと戻った。
タナカさんに報告すると「やっぱりご縁があったんだねえ」と言って
「にゅいいいっ」と笑った。
家に帰ってきたボクは仏壇の前に座った。
並んだ位牌の前のチョコレートをもらおうとリンを鳴らして手を合わせた。
じいちゃん、ばあちゃん、父さん、母さん、一つもらいます
この家に来たときにはボクとアニキとみんなでごちゃごちゃにぎやかに暮らしていたね
今はボク一人になっちゃった
アニキがちゃんと就職して結婚したみたいに
ボクもそのままうまくいくと期待してたんだよね
うまくいかなくてごめんなさい
お金を残してくれたのはありがたかったけど
だけどやっぱり生きていて欲しかった…
親孝行したかったな…
チョコを割って口に含むと一気に唾があふれて
ボクは生きてるんだ、と思った。
「根の国」は-
地上の裏返しみたいに地下の死者の国「根の国」があって
人は死んで土に還るけど地面からは新しい生命が芽吹いてくる
どんなに大きな木だって根っこで支えて生きているんだから
根の国が生きている人の世を支えているのかもしれないな
ボクはもうひとつチョコを口に入れて仏壇を見上げた。
じいちゃん、ばあちゃん、父さん、母さん、それからご先祖様
ボクはこれから頑張るから、今度は頑張れると思うから
どうか根っこみたいにボクを支えて見守っていてください
ふと
このチョコを持たせてくれたおじいさんとおばあさんの顔が浮かんだ。
そうか
ボクはもう父さんや母さんには親孝行できないけど
他の人にすればいいのか
で、そうして仕事して頑張ることが親孝行なんだよ、きっと
ボクが生きてることが親孝行なんだ
ボクが何もかも終わりだと思った夜にタナカ書房の張り紙を見て
それからまだ一週間しか経ってなかった。
人生って何て面白いんだろう
(完)