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霧の向こうの恐怖

勉強
子育ての風景

昔々、まだ雪の残る7月の山に登ったときのこと。
朝早いので濃い霧が足元に溜まっていて
雪渓の斜面を横切る自分達の足元すぐ下から何も見えず
霧の向こうはそのまま下に斜面が続いて深い谷になっているようで
「足滑らせたらおしまいだー!」なんて
半分ふざけながらも結構こわごわ歩いていた。
その後
頂上まで行って同じコースを戻ってくるともう、すっかり霧は消えていて
谷になっているかと緊張しながら歩いたところは
もう、踏み跡のすぐ下で斜面は終わりで、浅いくぼ地になっていた。

なあんだ、全然大丈夫だったよ!

と笑いあったワケなのだが
見えないってことは何があるか分からないってことで
いくらでも(悪い方にも)
想像が走っていってしまうのだと思った。

その先に何があるのか分からないということは
その何かが「恐ろしいもの」だということじゃない。
要するにわからないというだけ。
だから調べるのですね。
あのとき、ちょっと立ち止まって
地形図を開いてみれば簡単にわかったのだ。
そこに深い谷など無いと。

でも、まあいいか、と
ちょっと怖がりながらもそのまま行ってしまった。
これは、アカンかったなあ、と。
何かあっても・何も無くても
地形図を見なかったのはまずかったなあ、と。
持っていたのに。

そういえば、昔々
子どもの中学校の卒業式に出席して
子どもたちの寂しさと不安の入り混じった顔を見て
子ども達にとっては
今日が一生のうちで一番不安な日かもしれないと思った。
中学校を卒業するときというのは
高校を卒業するときよりずっと、想像するだけの知識も経験も少なくて
自分の将来が一番わからない時期だから。
だって、昔々の大昔
自分の中学校の卒業式の日は高校の合格発表の前日で
学校の門を出てぐしゃぐしゃの雪道を歩きながら
中学校から出されてしまって・高校に入れるかどうかわからなくて
所属が無いことを初めて実感して
ひどく不安で・寄る辺なく、自分を無力に感じていた。
宙に浮いてしまったようなあの日の不安を
雪解けになるたびに思い出す。

でもね
その時の自分やその時の中学生たちにささやきたい。

先がわからないということは
それも、これからの長い長い年月がわからないということは
実はすごくいいことや面白いことがあるかも、だぞ
先が見えないから不安になるけど
先が見えてしまったら、ものすごくつまらないよ

歳を取って、先が見えてしまった自分はそう思う。
自分がもし
今から医師になって世の中のために働こうとしても
まず医学部に入ることすらできない。
調理師も図書館司書も無理だ。

それでも
明日はいつでも新しい。