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床の間

読書

「床の間」太田博太郎著 岩波新書
を面白く読んだ。

実家は戦時中に建った家で、座敷と床の間があった。
その床の間は特別な空間で
一段高くなったところにお尻を乗せているのが見つかると、怒られた。
理由はわからなかったが、要するにそこは特別な場所なのだと。
掛け軸が掛っていて、その前の低い台には陶器の布袋様が載っていた。
この布袋様は兄弟全員が順におんぶしたりだっこしたり
お人形ごっこに使っていたらしい。
よく壊れないで残ったものだ。
そういうことはやっても良かったワケ?と今になって可笑しい。
さてそこで
この「床の間」の本は
日本の家屋における床の間の成立と変化について書かれた本だ。
この本によると床の間の始まりは
珍しい絵画を襖の前にぶら下げ、その前に長い文机を置いて
その上に花びんや壺などをのせて飾った、ということらしい。
元々は人を招いて観賞するときだけ設置したのだと。
そのうち次第に、いちいち机を持ってこないで作り付けにして
絵画は掛け軸にして、ぶら下げる専用の壁も作り付けにしてしまったのだ。
こうして床の間は不動のディスプレイ空間となる。
本来、床の間はみんなで眺めて観賞するところで
床柱の真ん前に客人が背を向けて座るモノではなかったのであーる。
それ以前
平安時代は部屋の作りが単純で
決まった間取りもなく・柱の間隔も決まっていなかった。
その時その時の用途によって
仕切りを置いて壁にしたり・畳を置いて席にしたりしていたのが
次第に作り付けになっていって・規格化されていったのだ。
その後
初めて床の間を背にして座ったという記録が残っているのが
豊臣秀吉
それまでは床の間の前、とは言っても横向きに座っていたのだ。
だって、背にしたら肝心の絵や掛け軸が見えないじゃん。
床の間という場は、色々飾ったモノを鑑賞する場でもあったが
いわゆる上座でもあって、これは畳の存在も大きい。
平安時代、床板の上に畳で上席を設えていたのが
一部屋全体に敷き詰めるようになったが
畳というモノには「厚み」があって、要するに「一段高い」。
これで席の順位を区別していたワケだ。
で、一部屋全体に畳を敷きつめると、高さの差が無くなるはず・・・
だがしかし、床を一段高くしたり、特製の分厚い畳を作ったりで
やっぱり高さの差は作っていたのだ。
床の間は、飾る空間と一段高くした上席が融合した空間であった
というのがこの本の結論。
過渡期には広い床の間に人が座って食事をしたとの記録も。
で、現在のコンパクトな床の間は茶室の作りが広まったのだと。
その一方で
最初に床の間を背にした人物は秀吉だと書いたが
著者の太田博太郎氏は
記録には残っていないものの、実は織田信長が最初ではないかと。
きらびやかなディスプレイ空間を背にして
権威を強調して・格式として家臣に見せつけたのではないかとしている。
あー、なるほど、納得できる。
こんなにすんげえオレを見ろー!!
自分をディスプレイしたワケだ。
そしてイマドキ
注目をあびる人が背にしているのは
チェッカー模様のアレですよ・バックボード♪

工学部の助教授だった太田氏は、終戦直後に炭鉱で働く人を集めるのに
どのような住宅を建てるのがいいかと労働組合に意見を聞くと
「床の間のある家を」とのことに驚いたと。
戦後でも床の間を背にして座るのは、あこがれだったのだ。
しかしながら
イマドキは床の間の需要が無くて
銘木店では床柱がほとんど売れていないのだと。
銘木店 むなしく並ぶ 床柱