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数式を使わない物理学入門

読書
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子育ての風景

子どものころ、光をつかまえようとした。
日の光を手のひらに受けて、さっと手でふたをする。
目をくっつけてすきまからのぞくと…光が見えない。
今度はバッタをつかまえるように両手でぽふっと。
暗いところに走っていってのぞくと…やっぱり見えない。
歳の離れた姉が「つかまえたかい?」と聞くので
「つかまえた」とは言ったけど…。

日向で何度も両手を合わせたり開いたり
光があたって・影になって、を繰り返し見ながら
どうしてさえぎったとたんに光が消えてしまうのかと悩んだ。
自分の周りはこんなに光が一杯なのに。
水ならすくえるのに。

夜光塗料のついた目覚まし時計が大好きだった。
暗い中で光り続けていたから。
「これは光をためることができるんだ」と兄から聞いてわくわく。
布団にもぐって目覚ましの文字盤をずうっと見つめていた。

そのうちだんだん大きくなっていって
光はどこからか飛んできて
何かに当たると消えてしまうものなのだとあきらめた。
そしてようやく二十歳頃にもなって
「数式を使わない物理学入門」猪木正文:著 光文社
という本を書店で見つけたことで
光を粒として思い浮かべることができるようになって
光の粒が何かに当たって消えることをようやく受け入れることができた。
もうページが茶色くなってしまった、一生持っていようと思っている本だ。

その本の中で印象が強かったのが
「女の子と素粒子は見られただけで行動が変化する」
「見る」ということは光がそこに当たって反射したものが目に入る
ということで
非常に小さいものは光が当たっただけで・弾かれて場所がずれてしまう
そういうことだ。
つまり見た時には・そこに「いない」!
それで量子力学には「確率」が入ってくる。
小さすぎるものは観測できないから。
手さぐりにもならないので計算で「予測」する。
そして「女の子」だけでなく・人間も「見ただけで変わる」。
誰かが自分を見ているのに気付いたら
「おや、何だろう」「誰だろう」「で、ナンでこっち見る?」
気にしないでいたとしても、気付いたこと自体が変化だ。
さてそこでハナシはガラッと変わって
占いや超能力なんかで「未来予知」というものがある。
子どもの頃は、予知できればいいのにと思っていたが
予知できたら絶対に行動が変わるからその通りにはならないのではないか。
いや、どう行動しようと予知通りになる・逃れられない運命
なんぞというのも見るが
それはイヤなモノから目をそらせなくて
自分からその「運命」に近寄って行っちゃうということだと思うぞ。
酔っぱらって歩いていたら電柱が「寄ってきて」ぶつかる、みたいな。

人も、素粒子も、未来だって、見ただけで変わる。

なにごとのふしぎなけれど