物語 根の国(5)
★ボクの過去
怖いもの見たさに引きずられてボクはガスコンロのところに行ってはみた。それから、ガスコンロを見下ろした。
「じゃあボクはここで見てるからね」
「ボクは…」
「キミはとにかく行きたいと思ってみて」
こんなこと真面目にやってるなんておかしいだろ!
と思ったけどそれでもボクはタナカさんについていきたかった。
「じゃ、ガスコンロを見て」
言われたとおりにガスコンロを見つめて一心に願った。
いってみたい
いってみたい
いってみたい
タナカさんと同じところに!
ふいに体重が消えて小豆色の暗闇になって正面から「うおおおっ」と風が吹いてきた。暗闇から森が現れるのが見えた。
森が見えた家が見えた人が見えたうあああああ…!
怖いと思った瞬間にまた「うおおおっ」と風が吹いた。
暗闇に包まれるといきなり体重を感じて足が床に着いたのがわかった。
思わず閉じていた目を開くとガスコンロがあった。
あわてて振り向くとタナカさんがいない。
今、寝てた?
徹夜で論文を書いていたとき床一面に資料を並べている最中に瞬間的に眠って床に頭をぶつけたことがあったっけ。
全然眠くなくても寝落ちすることは、ある。
でもタナカさんは?
ボクがここで一人で勝手に立って寝てた?
これって夢落ちってやつ?
ふいに風を感じると目の前が暗くなってそこからタナカさんが出てきた。
ボクの隣でばたり、とタナカさんの足が床に着いた。
「ちゃんとついてってあげたからね」
「見えたでしょ?森と村と。」
「えっ?はい、あの…森と家と人とあのあの…あの、えっと、怖く-」
タナカさんは「にゅいっ」と笑った。
「教えたのはキミが無鉄砲じゃない、からでもあるんだね。」
「それに君は自分でここまで戻れたしね。」
「行けるけど行かなくてもいいわけよ。いわゆる一つの選択肢ってやつ?」
「戻れたって、あの?」ボクは「戻れた」という言葉を聞き逃さなかった。
「うんまあ、世の中には色々な事があるワケでね」
タナカさんはちょっと目をそらした。
もしかしていま、危なかったんじゃないかと、ちょと不安になった。
気が付くと
部屋の中はもうだいぶ暗くなっていてストーブがぼうっと光っていた。
月曜日はボクもタナカさんも前日の出来事は口にしなかった。
多分タナカさんはボクの気持ちの整理がつくまで待ってくれているんだ。
タナカさんは朝からお客さんと打ち合わせをしている。
ボクは台所で珈琲フィルターを片付けたり食器棚を掃除したりしていた。
手を動かしながら目はどうしても「あの場所」にいってしまう。
このガスコンロがどうして特別な場所なんだろう
もしかして夢だった?
もっとよく見ればよかったな
だけど怖かったし…
少し黒くなっていたヤカンをきれいに磨き上げたら腕がだるくなった。
ちょっと休んで本棚の本を読んでいようかと思ったら指が黒く染まっていてもう一度しっかり手を洗っても黒い色は取れなかった。
これだけ洗っても取れないということは他のものに汚れが移らないはずだ
とは思うもののやっぱり本を触るのはやめようと思った。
ボクはシンクの前の小さな丸椅子でぼんやりと黒くなった指を見ていた。
ボクは市内の大学に通っていた。
ある時古本屋で本をぱらぱら見ていたら目次に知っているお寺の名前が出ていて驚いた。ボクは子どもの頃そのお寺で蝉とりをしたことがあったのだ。
急いでそこのページを開いたらそのお寺に千年前の古文書があったという報告だった。
それがタナカ書房の本で市内の郷土史家たちの「研究発表集」だったのだ。
東北にボクの親戚がいて、その隣(結構離れていたけど)が大きなお寺で
子どもの頃何度か夏休みに遊びに行って境内で蝉とりをしたのだ。
本に出ていたのはそのお寺だったのだ。
それで大学の夏休みに久々に遊びに行って古文書を見に来たと言うと
要るなら持っていきなさいと言われてもらってきてしまった。
千年前の年号は入っているけど文章が漢字とカナ混じりのどう古く見てもせいぜい明治の文体できっと物好きがこしらえた偽物だろうと言う。
「東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)」みたいな?
これ、読んでみたいな~ナンか面白そう
というだけでうかうかと大学院に進んでしまった。
就職の事なんか頭に無かった。
勉強は好きだったものの大学院がどういう所か何にもわからないのに入ってしまったから先生も困ってしまったのはわかった。
まあとにかくその古文書の事を先生に話すとそれを解読することになって、だけどこんな偽物みたいなものを解読してもいいのかなあと思ったけど先生は「面白いですねえ!こういうこともりっぱな研究ですよ!」
と「にっかり」としてボクの「研究」はそれになった。
ボクは子どものころから家にあったじいちゃんの「改造社の円本」を読んで育ったので読む方はなんとかなった。これは戦前の文体で旧仮名旧漢字で書かれていたのだ。だけど中に書かれている内容を理解するのは大変だった。文体は明治、大正だけど内容はもっとずっと昔の、それこそ千年前の話だ。
それで千年前のことを一生懸命に調べて勉強した。
だけど
ゼミに出ても別段注目もされず院生からの質問もお座なりのものだった。
だって院生はみんな自分の頭の上の皿を回すので精いっぱいだったから。
で、自分はだんだん先生に怒られないようにすることしか考えられなくなってそのうちどっちを向いているのかすらわからなくなって先生に相談したら
「ここは大学院なんですよ」と怖い顔で言われた。
きっと自分で考えなさいということだと思った。
だから自分で一生懸命に考えてわかるまではゼミには出られないと思った。
で、修論の提出直前になって
「キミのそれねえ、一体、どうしたいんですか?」
と先生に言われてボクは呆然とした。
(だって、先生がこれをやれって…)
「ここはねえ、考古学の講座ですよ?」
(え、だからどうしろと…)
ともかく期限は迫っていたから必死で書いてとりあえず論文は出した。
面接試験では副査の先生方もいるからわかってもらえるんじゃないか?
面接の試験日は何日だろうかと大学の掲示板を一日おきに見に行ったが
よその講座の日程は貼り出されているのにボクの講座のはなかなか掲示されない。講座の壁にもホワイトボードにも掲示は見当たらない。
講座の事務の人に聞いてもわからないと言うし先生はつかまらないし
一緒に受けるはずの人とはメールも電話もつながらなかった。
そうこうするうちにやっと先生に会えたのだが
先生はボクを見るなり不機嫌な顔になった。
「キミ、今日はナンで出てこなかったんだっ!」
「え!」
「ずいぶん前からちゃんと講座のドアに掲示してありましたよ!」
「講座のドア、ですか!?」
ボクだけ気が付かなかった?
ナンで?
先生は今更面接はやり直せないと言った。
「副査の先生方だって予定がびっしりなんですからね!」
「ま、今回は残念だったな」
と言って「にっかり」と張り付いたような笑顔を見せたが
先生の顔が暗い底なし穴に見えてきて
そこにいると吸い込まれるような気がした。
怖くなって
ボクがなけなしの力を振り絞って「もうやめます」と言うと
先生はひどく不機嫌な顔になって「そうですか」とだけ言った。
ボクはぎこちなく回れ右をして講座に戻って
置いてあった自分のバッグを肩にかけて残っていた人たちに
「それじゃあ、ボクはもうやめます」と言った。「お世話になりました」
みんなは黙ってこっちを見ていた。
ボクは自分のバカさ加減に死ぬほどあきれて大学の中を歩いた。
合格したときの有頂天な自分やふわふわと院進を決めた自分が払っても払ってもまとわりついてきた。
(うるさいなあっちへ行けよ!)
(お前のせいだぞ!お前のっ!お前だよっ!)
ボクは大学に入ればいいって勝手に思い込んでいただけだったんだ。
ボクは先生から逃げていた自分を責め続けた。
ボクは先生に怒られないことしか頭に無かった
ボクは逃げていたんだボクは卑怯者だ
ボクはいい気になって・できる気になって
高い授業料を払ってナニやってたんだ
でも…だって…でも…だって…でも…だって…
どうしていいのかわからなかったんだ
冬の陽はとっくに落ちてもう真っ暗になっていた。
ボクはからっぽになって寒くて白くて暗い街を歩いていた。
急ぎ足でないと死んでしまう気がした。
今度は仕事を見つけないとマズイのだと思い詰めていた。
意地悪をするように青信号が点滅して赤になってしまったので
その場で身体をゆすりながら待っていると視界の上にレモンのような月が目に入った。
はっとして見上げるとそれはビルの二階の真っ暗な窓に映った街灯だった。
ただ青白くのっぺりとした「月」は自分のようだと思った。
(つづく)