覚えている
子育ての風景
自分の子どもの頃、こうしてほしかったとか・あれがイヤだったとか
そんなことを思い出して人に言うと
どうしてそんな昔の事を覚えているのか、と言われたことがあった。
いや、逆に自分が驚いたのが
どうして自分の子ども時代を忘れられるのだろう、という事だった。
自分の事なのに。
子どもの頃、子ども扱いされるのが嫌だった。
大人の側は子どもだからわからないだろう「タカをくくって」いるのだが
子どもはちゃんと聴いているのだよ。
それに、寝た子を起こすだって?寝てないから。(笑)
とりわけ「子どもだまし」には本当にあきれていた。
「ねー、これ、いいでしょう?よかったねー。」
全然よくないのに。
「子どもだからこの程度でいい」
それが嫌だったんだな。
子どもの頃、そういうことをされて
嫌じゃなかったんだろうか。
もちろん、大人と子どもは違う。
子どもはまだ、一人前の能力を持っていない。
だから、区別は必要だけど差別は嫌だったのだと今なら判る。
一方、年寄り扱いというのもある。
年寄りはもう、一人前の能力を持っていない。
だから、区別は必要だけど
やはり差別はイカンと思う。
さらに
年寄りを子ども扱いするという勘違いも問題だと思う。
きれいなリボンのついた鈴を持たせて童謡を歌わせるんじゃなくてさ
クラシックが好きな人は多いと思うし
10年後にはビートルズとフォークソングじゃないのかなあ。
もちろん、歌いたくなんかない人だっているし。
以前、あるボランティアの会議で子連れで参加できるように
大広間をふすまで仕切って「会議室」の隣を「託児室」にした。
今現在子育て真っ最中の人が2人で2時間ほど幼児5人の相手をして
遊んだりトイレに連れて行ったり。
で、楽勝♪これって日常の延長だから。
しかし、子育てを終えた年代の方が2人でその役を引き受けた時には
「ものすごく大変だった」と不満顔で。
それは年齢を考えると大変なのはわかるのだが引っかかったのは
子育てについては「全部忘れちゃった」のだというところ。
しかも「どうして他人の子どもをみなきゃならないの」とも。
たくさん助け合ってナンとか乗り越えてきた
あの大変な、そして大切な時代をどうして忘れられるのだろう。
自分の事なのに。
子育てで疲れ切っていた時
とっくに子どもから手が離れた人に愚痴を言っていたら
そんなの、アナタだけじゃなくて、みーんな大変なのよ、だとか
もう、忘れちゃったわねえ、だとか
全く答えにも参考意見にも慰めにもならないことを言われて
自分は絶対に忘れないぞ・説明できるようにするぞ、と思ったのだ。
その一方で
知り合いと久々に会ったとき
あなたの事を思い出すと、必ず
私にママコートを着せかけてくれたことを思い出すの
と言われて、そんなこと、あったっけ…?
私の方はすっかり忘れていたのだが
その人は、とてもうれしかったのをはっきり覚えていると。
とても大変なときに誰かに助けてもらうと本当にありがたい。
助けたその人にとっては何気ないことでも。
そういえばその人が子どもをおんぶして帰ろうという時に
薄いピンクのママコートを何となく着せかけてあげたのだった。
情けは人のためならず
ということわざは結構解釈を間違える人が多いというが
(不安な方はおググりあそばせ)
情けが巡り巡って自分に返ってくるというよりも
むしろ、親切にしてもらって初めてそのありがたみを感じて
自分も誰かに同じようにしたいと思うことでもあるのじゃないか。
夜中に赤ん坊を抱いて部屋の中をうろうろしていたとき
子どもがその小さな手の平で私の肩をやさしくとんとんしたときに
ああ、やさしい手の平というものはこんなにもやさしいのだ
と、心が震えるような気持がして
同時に
自分はこの子にいつもこうして手の平で伝えていたのだなあと気付いた。
こうしたつながりは一体何万年続いてきたのだろう。
自分にとっては何でもないことでも
だれかにとっては忘れられないことがある。
いいことでも・悪いことでも。
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