3,162円で買った、一皿のカレーとスパイシーな思い出 #KUKUMU
「カレーに大枚はたくバカ」に、私はなりたい。
平日の午後。在宅勤務中の夫と「なんだかカレーが食べたいね」と雑談した流れで、「今夜は旨いカレーを食べに行こう」という話になった。
なんでもない平日に、家族で外食する。それがカレーであったとしても、ちょっとうれしいシチュエーションだ。お店選びを委ねられた私は「絶対においしいお店を見つけてやる!」とさっそくスマホの検索画面をひらく。
けれど、私は検索ワードを打とうとして、しばらく考え込んでしまった。そもそもカレーと名のつく食べものは、だいたい旨いのである。専門店でなくても、市販のルーのおかげで「家のカレー」は満足な味に仕上がる。牛丼チェーン店のメニューの片隅にある480円カレーも、実のところ隅に置けない出来栄えだ。もっと言えば8食入り270円のお子さま向けレトルトだって、たまに食べるとグっとくるものがある。
ううむ、さすがは日本の国民食とまで言われるカレー。内食、中食、外食の形態にかかわらず、安価で旨いものはいくらでもある。そこからひとつを選びだすのって、すごく難しい……。
ぐるぐるとカレー問答を繰り返すうち、私は新たな問いに行きあたった。
「じゃあ、高価なカレーってどれだけ旨いんだろう?」
軽く検索しただけでも2,000円以上の一皿はいくつも出てくる。なかには10,000円を超えるものまで! 「うーん……、カレーに2,000円や3,000円払うなんて、まったくバカバカしい。けれど一度ぐらいはそういうバカになってみたい……気もする」。考えれば考えるほど「カレーに大枚はたくバカ」になりたくなってきた私。ついにこらえきれなくなり夫に相談した。
「幾千円する高価なカレーを食べてみたいんですけど……」
「え? なんで?」
「……ちょっと、バカになってみたくて」
口に出してみると、ことさらにバカバカしさが際立つ。一笑に付されて終わるだろうと諦めかけたそのとき。夫は笑うでも驚くでもなく大真面目に「うむ」と受け止め、さらなる具体案を返してくれた。
「それなら、ホテルニューグランド横浜のカレーでも食べに行っちゃう?」
カレーがつないだ、ニューグランドとの縁。
ホテルニューグランド横浜。関西出身で横浜の文化にうとい私でも、耳にしたことぐらいはある。きっかけは……、そうだ。クレイジーケンバンドの楽曲ではなかったか。
当時18歳だった私は、この曲を聴いて思った。「ふーん、ニューグランドって、オーディマ・ピゲを買えちゃう人が泊まるレベルのホテルなんや。後にも先にも私にはまったく縁のない場所やなぁ」。
かなしいかな、18歳の予感はみごと的中し「ニューグランドのスウィート・ルームに泊まるチャンス」はめぐってこない人生だった。けれど今、突如として「ニューグランドでカレーを食うチャンス」にめぐまれてしまったのだ。思いもよらない事態に鼓動がはやまる。たかぶる気持ちを抑えつつ、私はニューグランドの詳細を調べた。そして3つの情報に心つかまれる。
ニューグランドの情報に触れるたび、気分がいっそう高揚してゆく。そのあいだにも、私の脳内には「スポルトマティック」の一節が流れ続けていた。
「よし! ニューグランドへ行こうじゃないか!」
私はクレイジーケンバンドにそそのかされるままに、意思をかためた。そして家計の余剰金を貯めた封筒のなかから、すばやく1万円札を抜き取る。
こうして横浜の片隅に住まう我々は、横浜を代表するクラシックホテルに押しかけることになったのだった。
庶民、ニューグランドへ行く。
意気揚々と現地に到着した夫、私、そして4歳の娘。
ピカピカに磨かれたガラスの回転ドアを通り抜けると、目の前にあらわれたのは濃紺の絨毯を敷き詰めた美しい階段。
階段の先に見えるのはエレベーターホール。時計の上、綴織に織り込まれた天女たちのあでやかなこと。
「こ……、ここは……」。
私と夫はゴクリと生唾を飲む。そして思った。
「庶民がカレーを食べにくる場所ではない……!」
厳しい現実を突きつけられて、顔を見合わせる我々。そこで私はさらなる厳しい現実を目の当たりにしてしまう。
ニューグランドに着くまで、まったく気に留めていなかったのだが、夫はなんと古着の黒Tシャツにサーモンピンクのハーフパンツ、そのうえ素足にVANSのスニーカーというスタイルだったのだ。コンビニのレジ前で「タバコ、28番お願いします」とか言ってそうな男が、マッカーサーやチャップリンが歩いただろうと思われる重厚な階段の目の前に立っている。時空のゆがみを感じる風景に、私は頭がクラクラした。
「ちょっと! その格好……」。
しぼり出すような私の声に、すべてを察した様子の夫。彼の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「カレーに大枚はたくバカ」になる以前に「いい年こいてTPOもわきまえられないバカ」であった夫と私。無言で冷汗をかく二人を置いて、娘ひとりが「ザ・カフェ」の入口に向かって颯爽と歩いていく。風でひるがえったユニクロのワンピースが眩しい。
「とりあえず中に入ろう……」
娘の背中を見つめながら力なくつぶやく夫。その横顔に「俺はただ、カレーを食いにきただけなのになあ」という切ない思いが透けて見えた。
やっぱりすごいぞ、ニューグランド。
気もそぞろな状態で「ザ・カフェ」の店内に足を踏み入れると、黒いスーツをビシッと着こなした男性スタッフがスマートに出迎えてくれた。差し向かいに立つのは、コンビニでタバコを買い求める風情の男。水と油のようにまったく調和しない双方の出で立ちに、私はいよいよ門前払いを覚悟した。
しかし彼は一切の動揺を見せず、さわやかな笑顔でこう言ったのである。
「3名様ですね。どうぞこちらへ」
なんて懐が深いのか。コンビニ男でさえもあたたかく迎え入れてくれる「ザ・カフェ」の包容力に、私たちは胸をなでおろした。
あとから知ったことなのだが、ニューグランドの初代料理長を務めたサニー・ワイル氏は「食事は楽しくないと意味がない」という強い信念を持っていたそうだ。
お客さまがリラックスした状態で食事を楽しめるよう、彼はいくつもの改革をおこなったという。代表的なのは、厳格なテーブルマナーやドレスコードを取り払ったこと。それから、コース料理一択だったフレンチに、アラカルト(一品料理)を導入したのも彼だったとか。
ニューグランドには、サニー・ワイル氏のホスピタリティが脈々と受け継がれている。我々はサニー・ワイル氏のおもてなしの精神に救われたのであった。
店内には耳に心地よいジャズが流れてはいるけれど、音量は控えめ。メインのBGMは、お客さんの談笑する声や銀ナイフとフォークがカチャカチャと擦れ合う音。みんな思い思いに食事を楽しんでいる様子だ。
思わず背筋が伸びるような上品な雰囲気に、感動のため息がもれる。ほぼ同時に、4歳の娘が感嘆の声をあげた。
「すっごくすてきなお店だね~!!」
4歳にも理解できる居心地のよさ、質の高いサービスが存在することを証明する一言だった。
案内された席に到着すると、男性スタッフはごく自然な身のこなしで、椅子を引いてエスコートしてくれる。そしてさらりと一言。「ごゆっくりなさってください」。慇懃無礼にならず、かといって、なれなれしくもならないちょうどよい距離感。折り目正しいサービスに惚れぼれした。
席についた私たちは、さっそく各々食べたいものを注文。もちろん私はビーフカレー。夫は当初の目的をすっかり忘れて看板メニューであるシーフードドリアを。娘はオムライスをチョイスした。
ほどなくして、配膳されたカレーがこちら。
そうそうこれこれ。ホテルのカレーといえば、このスタイル。「グレイビーボート」と呼ばれる銀の器になみなみと入ったカレールー。そして平皿に盛られた艶やかなライス。
注目はレパートリー豊かな薬味皿!
きゅうりのピクルス、らっきょう、福神漬け、そして茹で卵にパイナップル。5種類の薬味を自由に楽しめる仕様になっている。
では、さっそく……。
大ぶりの牛フィレ肉を口元に運ぶと、丁寧にソテーされた香ばしい肉の香りがただよってくる。思いきって一口でほおばれば、ゴロっとしたお肉で口のなかがパンパンに。ぜ……、ぜいたく……!
カレールーは、フルーティーな甘みを感じられる優しい味わい。リンゴやチャツネ、ココナッツを加えることで深いコクを出しているらしい。旨味をじっくり感じたあと、少し遅れたタイミングでスパイスが爽やかに香るのも、これまた憎い。
食べごたえのあるお肉に、うんうん唸りながらスプーンを夢中で動かした。途中途中で、5種の薬味を適量混ぜ込みながらいただく。
茹で卵のみじん切りは、ルーの風味をさらに優しくしてくれる。甘酸っぱいパイナップルは軽い口なおしにもなって、とてもよい。
ふと夫を見ると、夢中になってドリアを食べている。「スプーンを差し込むところ全てに大きな海老やイカが入ってるんだよなあ。ライスにも魚介の旨味がしみ込んでいて、今まで食べたどのドリアとも全然ちがう……」。誰に宛てるでもなく、ぶつぶつと賞賛の言葉をひとりごちていた。
私たち夫婦がキレイに食べきり、大満足で顔をあげたそのとき。目に飛び込んできたのは、レードルですくったケチャップを無心でなめる娘の姿だった。
オムライスのほとんどを食べおえた彼女は、ソースポッドに残ったケチャップとの別れを惜しんでいる真っ最中だったのだ。
「あ……、あ……」。驚きのあまり言葉を失った夫と私。カオナシ化した両親に、娘は最高の笑顔で応える。
「ケチャップ、めちゃくちゃおいしいよー!」
伝統ある格式高いホテルレストランは、ケチャップまで一味ちがうことが娘の証言により明らかになった。
大満足のお料理とサービスにすっかり気分がよくなった私たちは、名物・プリン ア ラ モードを追加注文。食後のデザートとして、ひとつのお皿を「一杯のかけそば」さながら、家族3人で分け合っていただいた。それでも十分なボリューム、かつ予想を超えるおいしさに、一同うなりっぱなし。
ニューグランドで買ったもの。
お会計を済ませてお店を後にした帰り道。ニコニコの笑顔でおしゃべりが止まらない娘。
「ケチャップ、おいしかった~」
「ぬーぶらんど、すてきだったねえ」
「また行きたいね!」
一皿600円のお子さまランチでは、こうはならない。
「一皿3,162円で買ったのは、カレーという食べものではなく、思い出に残る体験だったんだな」
私は娘の笑顔を見ながらしみじみ感じ入った。素敵な思い出を得たのは、もちろん子どもだけではない。
「子どもが小さいうちは我慢しなくちゃ」と諦めていたラグジュアリーな食事や一流のサービスを思わぬタイミングで体験できて、夫も私もすっかりリフレッシュした。それに、格式高いホテルにコンビニスタイルで乗り込んだ冷汗体験。そしてレードルをなぶる娘を見てカオナシ化した事件も、過ぎればスパイシーなイイ思い出だ。
「カレーに大枚はたくバカになってみたい」。斜にかまえた動機で足を踏み入れたニューグランド。行ってみて、体験してみてわかったことは「カレーに大枚はたくのは一概にバカとはいえない」「その価格には理由があるし、価値もある」ということだった。
最高の料理と懐の深いサービスを提供してくださった「コーヒーハウス ザ・カフェ」に最大の賛辞と感謝を! 今度はきちんとオシャレして、また行きます。
文・写真:森川紗名
編集:栗田真希