短編小説「左ひとさし指から生えてきたもの」 #KUKUMU
11月中旬のことである。窓から差し込むやわらかな日のひかりに照らされて目が覚めた。
「いま、何時かな」
毛布にくるまり目をつむったまま、左腕を上下に動かしてスマホをさがす。小指にスマホらしきものがコツンと触れた。指先でたぐりよせようとしたそのとき。
ぬぬ。
ひとさし指の先に、なにかひっかかった。不思議に思ったものの、寝起きでぼんやりした脳が「気のせいだろう」と判断した。
スマホをむんずと掴んで画面に目をやると、6時42分。あと15分は寝ていられる。ホッとした心持ちで毛布をかぶりなおすと……。
ぬぬぬ。
まただ。左手の指先に違和感。これは気のせいではないだろう。左ひとさし指の爪に毛布の繊維が絡まっているのかもしれない。左手を目のまえにかざしてみる。
「……?」
指先になにか付いている。爪ではない。白くて細ながいなにか。あたまのてっぺんはぷっくりとふくらんでいて張りがある。見おぼえのあるかたち。おそるおそる右手のひとさし指で触れると、しっとりとしてみずみずしい。そのまま鼻に近づける。キノコ特有の強いにおいが鼻孔に充満した。
まちがいない。これは、エノキタケだ。
指の肉と爪のあいだに、石付き部分が埋もれている。それはただ付着しているのではなく、わたしの肉体からしっかりと生えているらしかった。
頼りなく起立する一本のエノキタケ。体長は5㎝ほど。見れば見るほど異様である。得体のしれないものを目の前にして、わたしは心底ゾッとした。冷たい汗が背筋をつたっていく。その感覚だけが妙にリアル。
そういえば、昨夜の献立はエノキタケのみそ汁だった。エノキタケを洗ったり割いたりしたときに、胞子が皮膚に住みついたのだろうか。
「そんなこと、あるわけないじゃない」
突飛な妄想とわかっていながら、菌の胞子が皮膚に巣食い、菌糸が細胞の奥ふかくにメリメリと伸びてゆくさまをつい想像してしまう。あまりのおぞましさに肌が泡立つ。猛烈な恥ずかしさが全身を支配していく。
「ちゃんと手洗いできていなかったのかしら」
「生活態度に大きな問題があったのかもしれない」
「人に見られたら、なにを思われるか……!」
わたしは強い羞恥心に突き動かされて、エノキタケをブチンとひきちぎってしまった。痛みは感じない。根元からうまく抜ければよかったのだけれど、指腹の肉と爪のあいだに、エノキタケの根元がすこし残ってしまった。そのさまが、いかにもみすぼらしく、気持ちをさらにみじめにした。
「また生えてくるのだろうか」
ひきちぎってもなお、不安はぬぐえない。心臓の音がうるさい。
スマホの画面に目を落とすと、6時50分。起床してからわずか8分しか経っていない。8分前のおだやかな気持ちを取り戻したい。けれど、それは叶わない。わたしの左ひとさし指にはエノキタケが生えてしまったのだから。
かかえきれないほどの絶望を感じたわたしは肩で息をしはじめた。指先が氷のように冷たくなり、ふるえてしまう。そのときだ。
「カナちゃん、どうしたの?」
夫のおどろいた声。右隣で寝ていた夫が、わたしの異変に気付いたらしい。彼の声を聞いた途端、わたしはせきを切ったようにオイオイと泣いた。そして息も絶え絶えに、左ひとさし指に起きた天変地異を説明する。
一部始終を聞きおえた夫は、しばらくのあいだ、ひきちぎられたエノキタケを手にとってしげしげとながめていた。そしてボソリとつぶやく。
「これは……、人類が進化しようとしている前兆なのかもしれない」
「……え?」
「ちかい未来におこる食糧危機に備えて、人体が食料を生産できるように進化してきているんじゃないかと思って。カナちゃんに起こった異変には意味があるような気がしてならないよ」
わたしは、夫の真剣な表情と、左ひとさし指の先を、交互にじっと見つめた。
進化。夫の言葉を何度か反芻するうちに、恐怖はうすらぎ、羞恥心は潮がひくように凪いでいった。それどころか誇らしい気持ちがほんのりと芽ばえてくる。我ながら単純なヤツだ。わたしには考えもつかないモノの見方や考え方を示してくれる夫を、好きだなと思った。
わたしは、夫の手にあるエノキタケをつまみ、自分の手のひらにのせた。
「コレ、食べられるかな?」
「……いや、やめておこう。エノキに見えるけど、エノキじゃないかもしれないし。正体がはっきりしないきのこには気を付けたほうがいい」
そう。夫は、わりに慎重派なのだ。そういうところも嫌いじゃない。
夫のおかげで絶望の淵から立ちなおったわたしは、寝床からサッと起きあがり、朝食の準備をはじめた。献立は昨夜残ったみそ汁に、生卵、炊きたてのごはん。指先に鎮座していたひとすじのエノキタケは、お気に入りのお猪口に水を張って挿しておく。
1合の米を炊飯器にセットして、早炊きモードでスイッチオン。火にかけた鍋のなかで、エノキタケが味噌とともにヒラヒラと踊る。その姿に強烈な親近感と愛着をおぼえたわたしは、思わずひとりごちた。
「エノキタケってイイよなあ。すごく旨い出汁がでるものなあ」
こんなに旨いエノキを、わたしは自ら生成したのだ。この奇怪な事実は、わたしの自尊心をくすぐった。同時に好奇心がみぞおちのあたりからムラムラと湧き上がってくるのを抑えられない。それは高速回転する扇風機の羽に、ついつい指をつっこみたくなるイタズラ心に似ていた。
これを「出来心」というのだろう。わたしは、お猪口に挿しておいたエノキタケをサッと手に取り、沸いているみそ汁のなかに投げ入れてしまった。1秒にも満たない瞬間の出来事。鍋のなかで舞うエノキの群に紛れてしまったそれを、再び探しだすことは不可能だった。
わたしは何ごともなかったかのように、みそ汁をお椀に注ぎ入れ、ごはんと小鉢とともに食卓に並べた。
「ごはん、できたよ」
夫は食卓につく。まずはごはんを一口。つぎにみそ汁をズズっとすする。彼はそれらをもぐもぐと咀嚼しながら、慣れた箸さばきで卵を攪拌。カッカッカと小気味よい音が食卓に響く。すべてはいつもどおり。見慣れた朝の風景。
わたしは夫の一挙手一投足を注意深く観察した。ついさっきまで、左ひとさし指に自生していたキノコ。いわば己の体の一部だったものが、まさに今、夫の体内にとりこまれ、彼の血となり肉になろうとしている。
その光景は、奇妙なほどに気持ちを高ぶらせ、心臓の鼓動をはやくした。そして、わたしをまるで疑うことなく無防備な姿でいる夫を、心の底から愛おしいと思った。
この感動を今すぐ夫に伝えたい衝動にかられたけれど、ぐっと堪えた。一連のイタズラは墓場まで持っていこう。夫婦生活を円満に過ごすためには、こういうスパイシーな秘密が必要なのだ。きっと。
身支度をおえた夫は玄関を出る間際、少しこまったような微笑を浮かべてこう言った。
「今朝のみそ汁、今まで飲んだどのみそ汁より美味しかったよ」
「ほんと? 昨日つくったみそ汁をあたため直しただけなんだけど。エノキの出汁が一晩でよく出たのかな」
「……そういえば、さ。今朝、指から抜いたキノコ、どうした?」
「ああ、気持ち悪いから、生ゴミと一緒に処分しちゃった」
「……そうか。なら、いいんだ」
出ていく夫の背中を見送ったのち、わたしは足早に台所へ戻り、みそ汁の鍋をシンクにひっくりかえした。残っていた少量のエノキタケがトロトロと排水口に飲み込まれてゆく。
「わたしも一口ぐらい、味見しておいたらよかったかな……」
流れゆくみそ汁を眺めながら、後悔の念が脳裏をよぎる。
「いや、飲まなくてよかったのよ。正体の知れないキノコには気を付けたほうがいいんだから」
わたしは首を横に振る。やがてみそ汁はすべて排水口の奥底へと落ちていった。シンクには一粒の味噌カスすら残っていない。朝の珍妙な出来事がすべてリセットされ、長い夢からようやく目覚めたような心持ちになった。
夜の20時に帰宅した夫は、少々くたびれている様子だった。昼から夕方にかけて、夫はお腹をひどくくだしたらしい。わたしの左ひとさし指の先からは、エノキタケのちいさい傘が2つ見えている。
明日、皮膚科へ行こう。
わたしはかたく決意した。
***
文・写真:森川紗名
編集:栗田真希
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