超能力少年だった頃
「明日、キミがいないとしても書くんだ。」
というネットの隅っこのブログを読んだ方は、なんとなくボクの少年時代のことをご存知かと思いますが、なんせ隅っこなので、知らない人の方が多いと思いますので簡単に言いますと、
母親はボクを産んで4時間後に天国に行きました。以来父子家庭育ちのボクは、母親のことは父から聞いた話という、おそらく血の通った少ないけど最高の愛情が込められた言葉と、それを話す表情を幼い頃からずっと受け止めきれないまま育ちました。
遺伝という話は、病の他容姿や様々なことに影響が残る事は、みなさんもご存知だと思います。
昨日のことでした。
とあるオープンカフェのような場所で仕事の打ち合わせをしていました。隣には、広場があり何かのイベントの準備中でした。
打ち合わせが佳境に入ったところで、突然大音響が響き、一瞬耳を塞ぐことが遅れてしまったのです。どうやら音響のセッティング中にハウリングを起こしたらしかったです。
次の瞬間から、キーンと耳鳴りが止まらず会話もままならない状態になりました。不思議なのは、打ち合わせの他の人達は、たしかに大きな音だったけれどボクほどでは無いんです。
1日経って昼間これを書いているうちに少し楽になりました。最長記録達成です!と喜んではいません。
幼い頃に話を戻します。たしか尾道辺りの海が見える坂を登りきったところの平屋に、父の転勤で住んでいた頃のこと。
「もうすぐ帰るからな。」
坂の下の公衆電話で父が電話してきます。
坂を下りてくねくね曲がって下りて中間点辺りまで迎えに行くのが日課でした。
父は、革のダレスバッグを持って、帽子をボクに被して肩車して家までの坂を登りました。アマチュア登山家で日本の山を100登った父でも、仕事帰りにはつらかったと思っています。ボクは呑気に整髪料と汗が風に混じっている肩車から見える景色を楽しんでました。
「あっここの家テレビつけたよ。」
ボクが言うと父は、
「何でわかるんだい?」
そう言いました。
「耳がキーンとなったから。」
「あっここの家もテレビつけたよ。」
坂の途中で、たしかに開け放たれた居間のテレビがついているのを確認して、
「ほんとだなあ。母さんと同じだな。」
「えっお母さんもキーンってなったの。」
「うん、そう言ってた。」
父は、その後耳鳴りの事が気になり、いくつかの病院に連れて行ってくれましたが、異常はありませんでした。そして、あまり母の耳鳴りの話をしなくなりました。
テレビがつくと短く耳鳴りがするのは、今思えばアナログテレビ放送が終了し、ブラウン管のテレビが少なくなっていった辺りから、なくなりました。
原因も結果もわかっていません。それでもテレビの前に走りこむ足音や、笑い声が聴こえたあの頃にノスタルジーではなくて、今ではテレビだけでなくラジオや配信番組、音楽番組やドラマやバラエティを観てるって、呟きが見えるのは、あの時のキーンと短く聞こえた事が可視化されているようで、ボクは超能力でもなんでもなかったけれど、坂道や細道を肩車してもらいながら指差し確認して登った頃のように、懐かしさを感じながら、たまに一員になるのが楽しいです。
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