認めること
屋上から見る空が、すっかり秋の雲になりました。こんな日の翌日は雨ですので、傘無し族の皆様もご用意してください。
悔しいですが、秋ですね。晩夏とか言ってましたが、屋上に出て見渡すかぎりのうろこ雲を目の当たりにして、熱を奪うはずの汗もかかない身体。袖口から入り込む風。
間違いなくこれは「秋」
認めましょう。だが秋になったことを。受け入れるとは言わないです。
認めるということと、すべてを受け入れるとは違う気がします。何を言ってもいい空間にいるけれど、それが世界に向けて発信していることを考えている人は、案外少ない気もします。
認めることが最初の一歩であり、終着点でもあるのだと思うことがありました。もうそこから先には、道も無いのです。駅で言えば終着駅ですね。だからといって、隣の反対側ホームには、行き先の違う電車が出発を待っているのです。行き先は、ボクにもわかりません。
よくある話ですが、同じ方向を向くことが、パートナーの理想っていうのに少し違和感がある人が居て、それはこれを書いているボクのことなんですが、相変わらず危険思想かもしれません。
同じ乗り物には乗っているけれど、後ろ向きに流れる景色が好きな人もいれば、前を向いているのがいい人もいるし、向かい合わせのシートのどこかにいて、視界の中にはちゃんと居ると言えば…
すいません、ここまでわかりますかね。続けますけども。
ただ、同じ乗り物から降りることを選択する自由があり、チケットはそうそう売っていないのが人生さって、周りのパートナーが居る人を見たり話したりして思うのです。
乗り物の最小単位⁈はなんだろうなど考えました。おんぶなのか、お姫様抱っこなのか? 直ぐにセックスと繋げる思考が元々無い人なので、ここでは割愛します。(割愛したからには、いつか書きます。)
手を差し伸べて、その上に手を置いてもらうのも乗り物にカウントしようと、看護師さんの言う通りに手を差し出しましたが、脈を測られただけでした。
何度乗り降りをしても、心地よい人もいるだろうけれど、シートの前が騒がしく変わるのが嫌な人もいます。それはきっとこれを読んでいる人にも言えると思います。
それは排除ではなく、合わない歯車を削って合わせる作業を何度も出来ないし、時間はそれほどあるわけではないし、合わない歯車を削ってくれた人がいたことだけで良いじゃないかと思うのです。
深追いしている、それさえ分からない人もいる。
長い間疎遠でも、もう何も知らなかった頃に戻れる人と、戻れない、戻ってはならない人を、自分自身で分からなくなったら、手元にチケットが無いことを受け入れることと、ひとり次の電車に乗れば良い。そう思います。とは言え同じ感覚同じ視野で考えたことは、あまり変わりません。**
**一旦降りた感覚が無いからです。
認めると言うと、何かと上から目線と言いたい世の中ですが、自分の中での相手とのことです。「認める」より「見留める」が合っているかもしれませんね。
秋が来たのは認めるけれど、受け入れるのは歩いて空気を感じたりしながら、ゆっくり袖口から入り込む風や、人が減った海でも見て徐々に染まっていきたいです。
ぼくが以前言った、ここからの景色とは同じ列車のどちらを向いているかぐらいのことで、富士の高嶺に立っているわけではなく重なり合った景色は必ずあると思っています。
また、書きます。またお寄りくださいませ。
砂漠
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