見出し画像

夜の果てへの旅


人生が二度あればと歌ったのは井上陽水でしたが、二度目の生のほうがよりうまくいくとは限りますまい。
さきのことはだれにもわからぬ。
MLBの日本人元通訳氏の事件がアメリカでドラマ化されるとか、だれが予期しえたでしょう。ひとは今しか生きられません。一寸さきは闇であり、今とは無明という名の夜である。


始まりはこうだった。俺はなんにも言ってない。喋らされたんだ、アルチュール・ガナードの奴に。

『夜の果てへの旅』
ルイ=フェルディナン・セリーヌ



人生をたとえて旅だという。
旅の始まりは今生の始まり、生誕であり、生誕のためにはそれ以前、つまり前世がなければなりませんが、この私は他者だけの世界たる前世を知り得ぬ。ゆえにだれかが因果なるものを発明したのでありましょう。

今生の因として、前世があらねばならぬ、、、、、、、
誕生の因として、生殖があらねばならぬ、、、、、、、
自己の因として、他者があらねばならぬ、、、、、、、

因果とはひとの編みだしたつくりものであり、つじつまあわせであり、今という果があるゆえに因があらねばならぬと仮に説かれた「必然」であります。
この私とは、今ここに生きて有ると因果によって仮に説かれた唯一無二の生であり、この私が生きて有るということは必然ではありません。

さきのこともわからぬままに、だれもが気づいたらここに今、このようにして生きて有る。いっさいの根因はすでに始まっていたということ、あずかり知らぬうちに他者によって始められたという、この不条理に尽きる。
私のせいではない。
さりとて私は私でなくてはならぬ。
ゆえにおのが根を、今にもとめる。

就職、進学、転職、結婚、離婚、出産、定年、死別とさまざまな転機において、また常日頃から、さきのことをだれしも考えるものですが、なぜ考えるかといえばさきのことはわからぬからであり、考えの根にあるのはその人の今置かれている状況でありましょう。
絶望してるひとの脳裏には、ろくな未来は浮かびますまい。
それでも生の意味をさがすのであれば、もとめなくてもいいと申しあげたい。
答えなど無くてもいい。

意味にとらわれずに自らに由って有ればいい、かくあらねばならぬ生という様なものはない。かくあらねばならぬ生があるとすれば、意味にしばられた生である。
囚人の生である。
どれいの生である。
夢など無くてもいい。
やりたいことなど無くてもいいし、
だれかのために生きなくてもいい。
答えなんてなくていい。
さきのことはだれにもわからぬ。
善人も悪人も、善をなすまえに死んだかもしれず、悪をなすまえに死んだかもしれぬ。偉人もまた凡人も、なにもなさずに死んだかもしれぬ。

一寸さきは闇であり、今とは無明という名の夜である。たしかなのは、この夜は明けることのない夜であり、生きて有るかぎり果てまでつづいていく、
あなただけの夜であるということ。
答えがあるとしたら、おのれのうちにしかありますまい。

実生活において、しがらみのない者などなく、だれもが「囚人」であり「どれい」であるといえますが、そこに必然はありません。
ですので、答えなど無くていいのです。
あってもいいが、無くとも、自らに由ってあればいい。

ひとに理解されなくとも、それでいい。






最後までお読みいただき、ありがとうございました。