悪意という名の街で
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』という“名著”がありますが、上から目線の書名からしてどうせ説教じみた只の思弁やろと高を括りつつも、手にとってみればなかなか良い事が書いてある。
いつでもまず感じ、その後に考えよと。
実感は思弁に先立つ。
どちらか一方だけではいけない。
同様に、
他者との関わりのうちにどう生きるかという問いは、他者とどう生きたいかという問いであり、それに答えるにはまず自分が今どう生きて在るかを問う必要がありますが、
今かく生きて在る私と、
かく生きて在りたい私、
この私が今かく在るという〈実感〉は、
かく在りたい私という〈思弁〉に先立つ。
〈在る〉と〈在りたし〉。
この二項の間隙を葛藤としますと、生とは己にとってのかく在りたいという“善”を求める葛藤であると言い換えられますが、人それぞれに善があり、誰もが善を求めているということ、
犯罪者でさえ最善を尽くすように、この世界には誰もが求める一つの正しい善などというものはないということ、そうして善とは容易に手に入るものではないということは、皆様実感されておられることと存じます。
人の世の根底にあるのはいつでも力関係であって、葛藤を超克するよりは穏便に解消する方が楽であり、また波風立てぬことが求められる構造がこの社会にはあり、多様性、公平性、包摂性などといくら宣えど、絵に描いた餅、しょせん味わえぬ理想論、只の思弁であると。
例えばニューロダイバーシティなる概念があるようですが、人それぞれに脳や神経の働き方は異なり、同じ場所に居ても違うものを見ているのだとか。
つまり世界の感じ方は、人それぞれ先天的に異なる。
これを聞いて、あの人はちょっと変わっていたけれど、こういうことだったのかも知れないと想像する余裕が、いつでもあればいい、というのも“理想論”であり、人と違うということ、変わっているということ、あるいは何事かをやらかして叩いてもいい“弱者”であると認めると、人は残酷になるものです。
これが現実でありましょう。
あたかも己の善を求めて超克できなかった葛藤を“悪”を叩くことで代替するかのように、あるいは“弱者”を叩くことで己が“強者”であるかの如く振る舞いたいがために。
以上、
だらだらと愚考して参りましたが、経済がマインドに由るところが大きいように人の世もまた、皆様の今感じていること、すなわち実感に由り変わっていきましょう。
感じたことをただそのまま吐き出すのではなく、
まず感じ、その後に考えることで、この悪意に満ちた世も少しは善き方へ、という希望を込めて。