イヤよイヤよも、イヤやねん
好き嫌いが、
分別に先立つとしたら――
以下、差別について雑感を少しだけ。
社会的少数者がNOを言えなかったのは今は昔、とはまだ充分には言えぬとしても、先人の努力のおかげでか、上記「嫌よ〜」の“慣用句”がもはやバカな男の妄想でしかない昨今、言動には責任と社会の目が付きまとう、より潔癖な世の中になったといえましょう。
自分の振る舞いが他人に、ひいては社会にどう受け取られるかを考えぬは愚かであり、行き過ぎた行為や発言はスマホで録取され、社会的制裁を食らわされるリスクがある。
見守り社会といえば聞こえはいいが、相互監視では息苦しい、そこでよくいえば中庸、間をとって見て見ぬふりということも、ままあるわけで。
以前、知的障害者を見下し貶める冗談を言う医療従事者と同席することがありまして、アルコールのせいもあったとはいえ、どうしてもアイツらを同じ人間として認めるのが嫌であるとかなんとか(胸糞なのであとは割愛)。
聞いていて思わず、こらあかんやつやと引いてしまったのですが、笑っている人もあり、彼らにとっては日常の一コマだったのかも知れません(医療介護あるある?)。
もし自分の家族や近しい人が知的障害者となり、いやならずとも、コイツらのいる病院に世話になることとなったら、小生なら最低限隠しカメラとマイクは仕込むことにするでしょうね、絶対に。
されど、私的な場においての差別的発言、冗談を他人がとやかく言うのはまた違うような気も致しまして、もっとも、当事者の前でのそうした発言、あるいは物理的な暴力でもあれば、論を待たぬとなりましょうが(ダメ。ゼッタイ)。
差別をなくそうとする社会は“健全”である、
とはしばしば言われることであります。
その前提として、差別の存在がある。
より正確にいえば、社会には差別が存在することを認める必要が、前提としてあるということでして、これは誰の中にも差別感情というものはありうると認めることと言い換えられましょう。
ゆえに差別感情を抱くことは人として健全である、などといおうものなら詭弁となりますが、実際には、当たらずといえども遠からずというところではないでしょうか。
誰しも、どうしても受け入れがたい、嫌な人というのはあるもので、それが相手の属性から来ているのか、別のところからなのか判然としないということは往々にしてありましょう。
しかし嫌なものを嫌だと言うことが、私的な空間であっても、言葉狩りを恐れるなど、ともすれば差別と受け取られ兼ねないゆえに許容されぬ、
そんな社会は息苦しいと気づけば、
上述の医療従事者のようなクズのも、受け入れがたいとはいえ、現にいる以上、否定せずその存在を認め、見て見ぬふりをすることで「息のしやすさ」が担保されると申し上げたい(胸糞ですが)。
何事も中庸が望ましい。
画一的な価値観、または正論の押し付けが一方的にまかり通る潔癖な世は息苦しく、全体主義的であり、人から考えることを奪う。
昔、
嫌だから嫌だ。
と言って芸術協会だかの委員を辞退した内田百閒という作家がありましたが、こんなエピソードが今も残っているのも、いい歳をして言うことが子どもじみていたからでしょう。
分別よりも好悪を優先させたと。
されど、そういうものかも知れませぬ。
大人であれ子どもであれ、好き嫌いに理由はない。
とはいえ世にあれば、問われるのは分別であり、分別は自分で考えることから始まりますが、言葉としてまず表にあらわれるという。
もし好悪が分別に先立つのなら、
嫌なものを嫌だと言えぬとあっては、社会にいかなるNOも突きつけられませぬ。
言葉狩りは“ドレスコード”で留め置いて、個人の内心までは踏み込まぬのがよろしいかと。
嫌なものは嫌でいい、嫌なのだから。
ただし公の場で(また公の身分の者が)差別的発言をすれば叩かれて当然、それが世のあるべき姿ではないでしょうか。
重要なのは他者の肯定であり、
嫌なものだからと見下すのではなく、相手にとっては自分もまた異なる価値観をもつ他者であると認めることでありましょう。
たとえそれがどんな相手であれ、同じ世界で共に生きている以上は。
お読みくださりありがとうございました。
『ふふふふふ
ワン公って馬鹿だなあ
トーテムポール
怖がってら』
子どもやからまだ笑えるんやで
↑好き嫌いは分別に先立つ
意味の無いガラクタの寄せ集めという酷評も
(自分はそうは思いません!)