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家を出ずれば七人の敵あり


場の倫理とは何か――


またぞろ何処かの首長がパワハラだのおねだりだのと叩かれておりますが、権力者というもの、舐められては務まらぬ。という側面が過剰に出、弁えることができなかったのかも知れません。

皆様におかれましても、ふんぞり返ったハゲの勘違いを訂正するでもなく相槌を打ったり、立場上あえて厳しくどちらが上かを示したりと、全体の中の一部として相応の振る舞いを求められることは少なくないかと存じますが、世の中とは他人の集まりですので、場の倫理という他者との関係性を弁えられぬ者は排除される。

とはいえそこに明確な基準はない。排除を父性、包摂を母性といたしますと、愛嬌がある、コネがある、根回しがうまい、派閥に属しているといったことを「理由」に許される(包摂される)ケースは往々にしてあるわけで。
世渡り上手という。
上手があれば下手があり、能力に差もあれば意欲もモチベーションも違う、思想も異なると頭ではわかっていても、人は平等を求め、嫉妬するものであります。

和を以て貴しとなす、と千四百年前のこの国の偉人は古いことわざを引いて道理を説きましたが、そこには嫉妬への言及も。


十四に曰く、群臣百寮、うらやみ妬むこと有ること無かれ。われすでに人を嫉むときは、人またわれを嫉む。嫉妬のうれえ、その極を知らず。

十七条憲法


規範とは、守れないからあるのであり、殺してはならぬ、盗んではならぬと法にあるのも殺し、盗むからでありますが、嫉妬も然り。
妬み、嫉み、羨み、僻み、恨み、憎しみながらも愛するのが人であり、他者と較べて嘲り、論い、貶め、蔑み、嫌悪するのも人である。

「健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待する」とはアルベール・カミュ『異邦人』の一文ですが、人は誰でも嫉妬するものであり、時に不幸を願うもの。されど一人では生きられぬのも人。

和を以て貴しとなすとは、好悪は置いて、己の帰属する全体の中の一部として、それぞれが場にとって適切な役割を弁えることでありましょう。誰とでも仲良くできるわけもない。する必要もない。また誰もが味方であるわけもない。

男子家を出ずれば七人の敵ありという。世には敵がたくさんあるという意味ですが、男女の別なく、立場の別なくいえることで、件の県知事は驕り高ぶり敵が見えなくなっていたのかも知れません。面従腹背、雌伏といい、虎視眈々ともいうように、たとえ弱く小さく頼りなく映ろうとも、人とは存外に強かであり、人をよく見ているもので、見下し軽んじていればいずれ躓く。その時に手を差し伸べるか、突き飛ばすかは他者が決めることであり、己にはどうしようもない。
誰もが敵となりうる。
ゆえに、
人には敬意を。
己には慎みを。
驕りは躓きの石である。




以上、場の倫理について愚考して参りました。
全体の平等を志向するものを母性、個を能力差によって峻別するものを父性とすると、ハラスメントとは力関係を利用した行き過ぎた父性的言動といえますが、こうした言動はスマホで記録され、容易くネットで告発される今日。世の中はより「平等」(母性的)になったといえましょう。
可視的になったとも。
家を出ずれば、みんな等しく、見られている。




昔は家の中にこんな父親が
(見たことないけど)


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。