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それぞれの公正世界


米大統領がイスラエルの首相とホワイトハウスで会談後、
アメリカがガザを所有すると発言しましたね、
平和の為であるという。

日本には、
一方聞いて沙汰するなという諺がありますが、
権力者たるもの当事者それぞれの言い分を聞いた上で公正な裁きをと。

また大岡裁きなどともいうように、
情けをも考慮した裁きを人は求めるもので、

認知バイアスのかたよりの一つに「公正世界仮説」なる概念があり🔗
因果応報、
あらゆる行為には「公正」な報いがあるべき、、という思い込みでありますが、

思い込みとはいえ人に本来備わる情、
心のはたらきとして理解できましょう、
誰もが公正な世界を求めていると。

問題は、
私たちにとって、、、、、、、
何が公正であるかという事、
正義の事である。


だけど 飛び魚のアーチくぐって
宝島が見えるころ
何も失わずに 同じでいられると思う?

『強く儚い者たち』(1998)
Cocco



平和な日本に暮らす日本人であっても、
縁もゆかりもなかろう遠い世界の紛争に思いを馳せ、
平和を願う人はあるもので、
ウクライナやイスラエル、
パレスチナ・ガザをめぐり、
感情的なバトルもSNS上ではしばしば。

匿名の“場”ということもあり、
心ない言葉の応酬となりやすいのかも知れませぬが、

戦争や紛争に無辜の市民が巻き込まれない、、、、、、、公正な世界を願う思いが、
紛争とは直接関係のない者同士の諍いに発展するという皮肉な事態は、
今も昔も珍しくない。


20年程前のこと、
座敷での十数人の酒席にて、
イラク戦争についてケンケンガクガクとやり合っていたおっさんが二人(昔のおっさんは飲んでの議論が好き)、
やがてヒートアップし口論となり、
収まらずついに一方がポカリとやりまして、

場は紛然とし、
すぐさま周りが双方を羽交い締めにして引き離しにかかる、
その最中、
女性がしきりに「暴力はいけない、暴力はいけない」と叫んでいて、
違和感を覚えたのですが、

確かに酒席で暴力行為があれば同席の者が止めるのが然るべき対応でしょう、
場を乱した当事者を力づくで抑え込むのは正しい、

されどこの正しさ、
正義は、
その場において多数派であり、
従って当事者よりも力で勝る、、、、第三者にとっての正義でしかないという事。

一方的に殴られて唇から出血しているおっさんにとってはもしかしたら報復が「正義」かも知れず、
報復という彼の正義によって事態がさらに悪化し得ると分かっていても、
殴り返す機会を奪われてきっと悔しかろうと、
そう慮るのが人情というものではないでしょうか(とはいえ殴り返す機会を第三者が与えるというのも違う気が致しますが)。


先に手え出したんあっちやで



なにはともあれ、
暴力はいけないという主張には、
人としての情、
情けという相手をいたわる気遣い、
他者へのまなざしがない、
ゆえに独善である。

そしてまた、
あらゆる正義は独善となりうる事への懐疑が、
いついかなる時も必要でありましょう。

暴力はいけない、
平和でなくてはならぬ、
戦争には絶対反対であるという、
初めに結論ありきのこういった言説がしばしば感情論となり、
異論反論受け付けぬのは、
あたかも福音書にある、
“初めに言葉ありき”の如く、
懐疑の欠如、
無謬の教条主義だからである。

無辜の虐殺は罷りならぬ、
いかなる暴力も認めぬ、
戦争は絶対に起こしてはならぬ、
これらは神の言葉ではない、
人間の言葉であり、
人間の考えた綺麗事、
理想であって、
人間同士の諍いにおいてものを言うのは理想でも神の力でもなく、
その場に居合わせている人間の力でありましょう、
上述の酒席での事態のように。




正義とは、
その場における善悪を決する力、
能力の事である。

場を共有せぬ、
遠い異国に私たちにとっての、、、、、、、、公正な世界などあろうはずがない。

場を共有していればこそ、
他者それぞれの心情を慮ることもでき、
起こった出来事を自分たちの事として捉えることもできましょう。

公正世界とは畢竟、
私たちの生存の為に、
私たちにとっての正しい世界であり、
私たちの拠って立つ、
ここと具体的に名指しうる、、、、、、、、、、、、場に
今、
力と共にあらねばなりませぬ。


正義とはこのこと





以上、
平和を愛する一国民として愚考して参りましたが、
「公正世界」が実現されたと実感できるのは、努力が報われた時、あるいは裏切られ、裏切った相手が痛い目に遭った時など、皆様それぞれにございましょう。

付言しておかなければならぬのは、私たちにとっての公正世界もまた、私たちそれぞれにとっての、、、、、、、、、、、、ものであり、画一的な、教条主義的なものではないという事でして、

例えば多様性Diversity公共性Equity包摂性Inclusionといったリベラルな価値観も、強く、画一的に押し付けられればどうなるか、米国で現在起こっている事は対岸の火事ではありますまい。

人の世は不公正であるという事は誰もが認めざるを得ぬ現実でありますが、世界に“ならず者”国家があるように、暴力がものを言う裏社会でしか生きられぬ人もあれば、裏切られ蹴落とされて道を踏み外すエリートだってあるように、

誰もが他者との力関係のうちに生きて有る以上、公正に、己の感じるとおりに正しく生きられる訳ではないという当たり前を知れば、DEIも、暴力はいけない、戦争は罷りならぬなどという平和主義者の空論も、押し付けるのは傲慢であり、ナイーブであると気づきましょう。

人には戦わねばならぬ時もある、
綺麗事では生きてはいけぬ、
否、
生きる事は綺麗ではない。



きっと 飛び魚のアーチをくぐって
宝島に着いた頃 あなたのお姫様は
誰かと 腰を振ってるわ





小学校の音楽の教科書に!
載せる訳にはいかんか(´・ω・`)ショボーン




お読みくださりありがとうございました
日々何かと“戦って”おられる皆様の今が
いつか報われますように