見出し画像

善を求める欲求


頭の中を整理するために書いた文章です。あまり共感される方もいらっしゃらないかと。お目汚しお許し下さい。


大手芸能プロダクション創業者による性加害を巡る騒動が糸を引いておりますが、創業者の性癖と性的虐待は周知のことで関係者もマスコミも絶大な権力を前に黙殺していたという批判がありますね。
耳が痛いといえば大袈裟だが、不正に声を上げなかったことなら私にもある。


十七歳の冬、家族でスキー旅行に行ったのだが、当時付き合っていたガールフレンドも一緒にどうかと誘ったのは父だった。父は腕に覚えがあるらしく、ゲレンデで彼女にスキーの手ほどきをしていた。背後から覆いかぶさって、手取り足取りといった風に。
私が記憶しているのはそれだけだが、後日彼女に日記を差し出された。無言で指さし、ここを読んでと。
父は彼女の躰をまさぐり、服の中にまで手を入れたと書かれてある。彼女は十七歳、今でいう性的虐待だが、私は何も言わなかった。言えなかったのではない。


波風立てない方がいいという判断だった。たとえ話したとしても母は信じなかっただろうし。二人の姉も。彼女たちにとって父は立派な人間だったから。
人は信じたいものを信じる。
彼女たちが私の話を信じる理由はないし、父と対立したら経済力のない高校生である私の立場はどうなっていただろう。保身を考えた。そのために傍観していようと。


人間関係の根底にあるのは力関係だ。経済的に依存していない今、私は彼に彼女の日記の内容を突きつけることができる。
しかし何のために。芸能界の闇を暴くのとはわけが違う。一個人のそれも四半世紀も前の不正を突きつけたところで、何かが変わるだろうか。考えてみた。


投影という防衛機制がある。自分の中に認めたくない資質を他人に見い出し、自分のことではないのだと安心したがる心の働きのことだが、不正を前に声を上げないメディアを批判するのもそういう心理だと仮定してみる。黙殺しているのは自分ではない、あいつらなのだと。
であれば人は本質的には不正に対して声を上げたいのではないだろうか、そう考えるとしっくりきた。私もまた然り。そう、これは善を求める欲求なのだ。


とはいえ今さら父に不正を突きつけることは不毛だろう。なぜなら私はわだかまりを解消したいわけではない、善の側に立ちたいだけなのだから。


父は顔の醜い男で、女性経験はおそらく母一人だけだろう。母いわく彼はマザコンらしい。マザコンにして性的虐待者、娘たちからは立派な人間と見られ、現在は孫を溺愛する何処にでもいる好々爺といっていい老人。

私は十七歳の冬以来この男を軽蔑しきっているが、大学まで行かせてくれて感謝もしている。軽蔑している者に感謝することは矛盾ではない。私を卑屈にしはするが。


私は父を軽蔑していることをこれまでおくびにも出したことはないし、これからもないだろう。軽蔑している者とわだかまりを共有するつもりもない。だから彼のした醜悪な行為について彼に話すことはない。
繰り返しになるが、私にあるのはただ善を求める欲求で、善の側に立ちたいだけだ。彼がこの記事を読むことはまずないだろうから、一言だけ。息子から。父よ、恥を知れ。