サラバ青春ノ光
アメリカ大統領選が迫って参りましたね。
以下、分断と青春について思いつきを少々。
お付き合い頂ければ幸いです。
17、8のころ友達に、
『さらば青春の光』という映画を観たことがないなら早く観たほうがいいぜ、俺の血はそいつでできてる。
と言われ、そのイキがった言い回し含め、「俺が俺が感」が気に入らなかったので以来スルーしていたのですが、最近観る機会がありまして、
イキがった子どもたちが敵対するグループと喧嘩したり、クスリをきめたりとあーだこーだがあって、最後に一途な主人公が「現実」を知り自殺するという話で、感想といえるようなものも特にないのですが(好きな方申し訳ありません)、映画や文学には、とりわけ青春ものには歳相応の賞味期限というものがあるらしい。
青春とは、老成できぬ愚かさであると坂口安吾が書いておりましたが、いくつになってもナイーブで一途、自分のことだけとあっては目も当てられぬといわれればその通り。
されど小生のことは棚に上げて申し上げますが、いい歳をして自分ファースト、青臭い人は珍しくないという事実には、皆様首肯されることと存じます。
他者への想像力の欠如は、自助、自己責任、他人と競争するのが自明の世だからでありましょうか。
SNS上での考えの異なる者同士による心ない応酬や、ネットリンチもそうですが、自他の「分断」といえば、今、彼の国において顕著ですね。
来たる11月5日の米大統領選にまつわる報道を日々横目でチラ見しておりますと、両候補ならびに支持者同士の舌戦、罵り合いには辟易している方も多いかも知れませんが、互いに相手こそが「分断」を煽っていると感情に訴えるメディアの切り取り方ばかり目立つ気がしておりまして、
先の衆院選での、あたかも争点は「裏金」であるかのような報じ方を想起するに、政策の良し悪しを理性に問うよりは、「人格的」な善悪を感情的に訴えるほうがわかりやすいということなのでしょう。
メディアは我々を見下しているのか、それともこちらのレベルに合わせているのか。
とまれ、
世人というものは忙しい。
選挙のときぐらいしか政治に関心を持つ暇がないという人は少なくないでしょうし、それでいて、いい歳をした大人として政治のことはわからぬなどとは口が裂けてもいえぬもの、面子が許さぬ。
というわけで、
感情的に理解できるわかりやすさが求められ、感情的であるがゆえに政治は「センシティブ」なトピックとなり、いつまでたっても我々は、感情抜きの成熟した議論ができないのではないでしょうか。
実社会では痛い目にもあって世の厳しさも不条理も、他人とのコミュニケーションの大切さも肌で知っている人であっても、こと思想信条の異なる他者と共存するための政治というテーマに関しては、異論を寄せ付けず、ナイーブで一途な「俺が俺が」の理想主義者となり、自分の信じたい幻想を信じている。
同じ意見の人だけを信じ、似たもの同士徒党を組んで、他者を排除する。
大人とは、己とは異なる他者を受け入れ、共存することに責任を持ちうる人をいうのであれば、
つまりは、
いまだ青春というわけで。
以上、お付き合いくださりありがとうございました。
政治のことに限らず、普段から歳相応の振る舞いを心がけたいものですね。映画ならば、青春は死によって終わらせることも叶いましょうが。
されど名曲に賞味期限なし