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水は低きに、人はやさしきに



差別やいじめ、それに類するハラスメントがなくならないのは、自己保身のため、誰もがスケープゴートを探しているから。
「やさしい」人はカモにされる。



運動場のはしっこで 悪魔を育てよう
誰にも気づかれないように 食べ物を少しわけてやる
金網の中で大きくなれよ

『英雄にあこがれて』
ザ・ブルーハーツ



失われた30年、
ではなく人間、30年も生きていれば、
一人かふたりぐらいは〇したいとまではいかずとも、
死にかけていたら放っておこっかな♬
くらいの、
憎たらしいやつがいるものでして、

”善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや”

とは歎異抄の有名な一節ですが、
憎いあんちくしょうめが死んで、救われるのなら、せめて生きているうちに……などと時々、不意の憎悪に駆られ、
善からぬ考えが浮かぶものの、

この世に悪人などおらぬ、
悪い行いがあるだけで、
罪を憎んで人を憎まずなどと、人は憎しみを、
善からぬものとして理性で抑えこむ。

それが世に対する分別というものであり、
誰だって人が憎みたくて憎んでいるわけではないのでしょうが、
こころが裏腹なのは、
ただ、
こころに巣食った悪魔が黙ってはおらぬというだけのこと、

悪いのはみんな悪魔である、
みんなの中の、悪魔である。


世には悪魔の巣食う悪人ばかり、
かくもせちがらき世といえども、
やさしい人はあるもので、
無下にされ、
暴言を吐かれ、
あらぬことを言い触らされ、
仕事を干され、
と、
不当な扱いを受けても誰を責めるでもない、
怒りや憎しみを飲み込み、自分の至らなさが悪いのだといじめやハラスメントを正当化し、いつしかおかしくなっていくのを、ただ見ているのは、まことに忍びない、

というわけで、
本稿を起草するに至ったわけですが、
怒りや憎しみを向けるのではなく、見せるだけでも相手が怯むこともあります、
そうすることが、
身を守ることになることも。


いじめやハラスメントが常態化している集団では、責任は分散化され希薄化しているため加害者も傍観者も罪の意識などない、
みんなやっているから、、、、、、、、、、と、
水が低きに流れるがごとく、やさしい人を無下にする、
自分が標的にならない、だけのために。

怒りや憎しみを善からぬもの、悪と呼ぶのなら、
悪に抗う悪は正しき悪である。

正しく怒り、
正しく憎み、
正しき悪を育てましょう。

倍返しとまではいかずとも、
借りを返せるくらいには。



運動場のはしっこで 悪魔が笑っている



以上、お付き合いくださり、
ありがとうございました。
この胸糞悪い集団のあり様は社会の問題であり、
自己責任なんかでは決してない、
どうか、一人で抱え込みませぬように。