「質問」という羊の皮を被った狼に気をつけよ。
本日のインプット
「答えの決まっている問いを投げかけることは、一種の暴力である」
「社長が既存顧客に注力しようと話した。うちの部署では何の目標に注力していくべきか」とリーダーがチームメンバーに伝えたら、それは目の前の数値目標を達成しろと言っていることになるかもしれません。
誰かから「ねえ知ってる?」と質問されたとき、自分が知っているかどうかを聞かれているとは感じません。相手が話したいことがあり、そのきっかけでしかないと考えます。
子どもに「なんで勉強しないの?」と質問するとき、言語的には質問の形式となっていますが、本質的に(伝わる意味として)は、「勉強しなさい」というメッセージですね。
問いは大切だ、とよく言われますが、その質の幅は想像以上に大きいです。どの組織で、誰が、誰に対して発するのか、でも大きく意味が変わります。
自分が相手よりも優れていて、上の立場である、と思い込んでしまうと、問いによって自分の優位性を確認したり、知識を与えようと横暴な態度になってしまいます。(これは、無自覚なことが多く、正しい自己認識をするには相当な訓練が必要でしょう)
ビジネス書を読んで、「こういうときは、この質問」とマニュアルのように学んでも、有効な場面は非常に限られていますね。そもそも、自分と相手がどのような距離感で、お互いどのような位置にいるのか、という前提を捉えることはできません。
これは、ひたすら経験あるのみですね。他人の数だけ、問い方があり、その場面や文脈においても、問いが変わってきます。
関係性 ×(自分 × 相手)× 文脈(組織) = 適切な問い
数式にまとめようとしたものの、変数が多すぎて、まとまらず。
ある程度までは、ロジックが通用すると思いますが、どこからか経験による直観を頼らざるを得ない領域がある気がしています。
まず、私の場合は「答えの決まっている問い」を投げかけないことから、まずスタートしていきます。そのあと、もう一度、問い方について考えてみたいと思います。