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第27話 のりおちゃんの幻視

診察室の扉を開けたわたしに視線をやり、大谷先生はぎょっとしたように目を見開いた。髪型を話題にすることさえセクハラになるご時世である。先生はわたしのツーブロックには触れず、鈴木さんに会釈した。

令和6年2月29日。院長先生にわたしが手紙を出してから、最初の診察の日である。鈴木さんをともなって診察室に入ったわたしは、鈴木さんと並んで椅子に腰を掛けた。

(先生はこういう髪型の女、苦手でしょうね)

今回のトラブルがなかったとしても、わたしと先生が男女の関係になるようなことはあり得ない。先生に片思いをしながら、3ヶ月に一度の通院を楽しみにしていればいいと思っていた。

膨大な人数の患者さんを、大谷先生が相手にしていることは承知している。でも、ベルトコンベアに乗せられて運ばれてくる商品みたいに扱ってほしくなかった。先生にとっては軽症の患者でも、わたしにとっては人生の一大事なのだ。

「先生はそんなつもりじゃなかった」という鈴木さんの話は、まぁ間違いなくそうなのだろう。わたしだって、先生が本気でわたしを病院から追い出そうとしていたとは思わない。でもあの日の先生の態度は、薬で弱っている患者に取っていいものではなかった。

わたしは大谷先生の顔をじっと見つめた。大谷先生は、鳩が豆鉄砲を食ったような目でわたしを見つめ返した。先生は心の中ではきっとこう思っていたであろう。
(なんでこんな酷いことするん…?)
そりゃこっちのセリフじゃい!とわたしは思った。

「えーっと…、どうですか?その後は」
大谷先生は、手紙のことには一切ふれず、普段通りに話を切り出した。わたしはてっきり「手紙読んだよ、そんなつもりじゃなかったんだけどな」ぐらいはあると思っていたのだが。

“先生”と呼ばれる人種は、総じて「謝ったら死ぬ病」を罹患している。学校の先生だった母を見て思う。プライドの高さがそのようにさせるのか。謝罪することで自分の立場が悪くなるのを恐れてのことなのか。大谷先生もわたしの母と同じだ。自分は悪くないと、自分自身に言い聞かせているようだった。

先生のそんな態度に、わたしは失望した。

わたしは横に座っている鈴木さんにチラッと目をやった。鈴木さんは満面の笑みを浮かべている。トラブル後の空気を、少しでも和らげようとして下さっているのだろうか。

(いや、違う!)

鈴木さんの顔が、白い紙でできたお面になっていた。お面は目元と口元が笑ったような形に切り抜かれている。鈴木さんの笑顔は作り笑いだ。何かを企んでいるのかもしれない。

(のりおちゃん、いったい何を伝えようとしているの?)

わたしには霊感はない。幽霊も見たことがない。しかし、のりおちゃんが送ってくれる幻視は感じることができる。

わたしは平静を装いつつ先生の質問に答えた。
「年末から気分の落ち込みに効く漢方薬を内科で出してもらっていたんですが、本格的に鬱の治療を開始することになりました。1月25日から抗うつ薬を飲んでいます。」
それを聞いた大谷先生はガックリと首を垂れた。
「そっか、鬱になっちゃったのか…。タモキシフェンの副作用のひとつが鬱なんだよね。どうする?ホルモン治療はもう中止する?」

わたしは思った。
(あれ?薬の名前は聞かへんの?)

大谷先生は外科医だ。抗うつ薬の種類なんて聞いても分からないのだろう。きっとそうだ。念のため「タモキシフェンを飲んでいる」と伝えておこうか。しかし。

(鈴木さんの仮面が気になる…鈴木さんにはこのことを教えないほうがいいのかも知れない)

わたしはとっさに薬の名前を伏せた。
「抗うつ薬を飲み始めてからすごく調子がいいんです。抗うつ薬を飲みながらだったら、ホルモン治療を続けられると思います」

診察室を出ると、わたしといっしょだった鈴木さんの姿がない。先生と打ち合わせでもしているのだろう。今日の診察は穏やかに進んだ。わたしがおかしなモンスタークレーマーではないことも、鈴木さんに分かってもらえただろう。

わたしが待合室のベンチに腰をかけていると、鈴木さんが戻ってきた。
「今後も気になることがあれば、お気軽に私のところに聞きにきてください!」
鈴木さんはわたしにそう言うと持ち場に帰って行った。

(え?絶対いま、先生と二人で何か話してたよな?話しの内容、私に教えてくれへんの?何をコソコソしてるん?)

鈴木さんは私の身方ではない。のりおちゃんが伝えようとしていたのはきっとこれだ。わたしは直感的に悟った。

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田中さなえ/乳がん治療中
温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。