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ジェンダー問題にもアプローチ

*これは一昨年、不登校ブログではなく、短歌ブログ「南の魚座 福岡短歌日乗」に書いたものです。またあらためてお話しすることもあると思いますが、娘の不登校の根底には親である私のジェンダー不平等観があります。このブログのテーマになった高場乱(たかばおさむ)という、大変希有な女性はそのことを考えるにあたり、とても参考になる存在でした。そういう理由で今回、noteに仲間入りです。

〈人参公園〉
「歌壇」9月号の特集、「極私的歌枕ー街の「場」を詠む」。実は私も短歌3首とエッセイを執筆させていただいています。

 歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味しましたが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことを言います。その地が繰り返し詠まれることで、「◯◯と言えば△△」というような連想を引き出す力のある地名です。

 吉野と言えば桜
 竜田川と言えば紅葉
 田子の浦と言えば富士
 真野の萱原と言えば面影

 といった具合です。その地名を詠めば、その後の桜や紅葉や富士や面影はもう言語化する必要はなく、読者はオートマティカリーにその世界観に誘導される、それが歌枕です。人々の移動手段が自分の足しかなかった頃、旅は大袈裟でなく命懸けでした。桜も紅葉も富士も、また遠く住む恋しい人の面影も見たいと思ったらすぐ……というわけにはいかず、その代わりに和歌に詠まれた景にしばし心を遊ばせて、憂さを晴らす、そんな役割を担っていたのが歌枕でした。歌枕になった地名は長く日本人の憧れの地であったということなのでしょう。

 そんな時代から千年が過ぎ、今は望めばたいていの場所を大した苦もなく訪れることができるようになりました。その意味では現代における歌枕の需要は以前ほどではなくなったと言えるかもしれません。またそれ以上に、ネットが生活の根幹を成すような社会になって、個々の興味も多様化してきました。以前のように、みんながいいと言ったから……、興味があると言ったから……というマスの視点でその興味の方向を計ることのできない時代になったのです。「みんなが興味のあることを、自分がどう考えるか」という問いの設定そのものが無意味で、今はもうダイレクトに、「自分がどう考えるか」、そこを問う時代になったということでしょう。

 その意味で、「歌壇」9月号の特集企画は面白かった。「極私的歌枕」を上記の「歌枕」の要件にあてはめて考えると、「◯◯と言えば△△という連想を掻き立てるような、ごくごくプライベートな場所はありますか?」ということになります。

 依頼された内容は歌3首、エッセイ200字なので量的には大したことはありません。しかし、その「場」の選定にはずいぶん悩みました。そんな時、まさに奇跡のタイミングで、あるイベントが開催。それは、渡辺通りの電気ビル共創館内にあるビジネス支援型会員制図書館BIZCOLI(ビズコリ)のセミナー。講師はウィキペディアンの海獺さん。地域のまだ掘り起こされていない素材・人材を発掘することがビジネスチャンスに繋がり、時としてWikipediaがその一助にもなりうる……というのがそのご講演の要旨だったのですが、その「未だ発掘されていない素材・人材」に該当するものとしてご紹介されたものに、私はとても興味を持ってしまったのでした。

 それは、博多区住吉にある「人参公園」。ご存知の方はどのくらいいらしゃるでしょうか。私は、と言えば、もちろんその存在を知ってはいました。けれど以前、その名の由来を、このあたりは古くからの埋立地で(それはそうでしょう、住吉というからにはここのあたりはもともと海辺だったはずです)、痩せた土地には人参くらいしか育たず、その畑が広がっていたので公園もそんな名前がついたのだという通説を聞き、それを鵜呑みにしてそれっきりになっていました。

 けれど今回、東京からいらした海獺さんは、この「人参公園」という不思議な名前の、公園としては至って普通の佇まいのこの「場」にとても興味を惹かれたらしく、ちょっと調べてみると次々に興味深い事実が判明して驚かれたそうです。

 ざっくり言うと、まず「人参公園」の人参は、私が考えていたような(カレーに入れる)西洋ニンジンではなく、薬用の高麗人参で、この住吉あたりはかつて福岡藩の薬用人参畑が広がっていたらしい。公園の名の由来はそういうことなのだけど、この「人参公園」を調べると必ず出てくる名前が「高場乱(おさむ)」。で、この人は?と調べはじめると、この人物がまた面白い。

 「福岡 男装 幕末」と言えば、秋月の原采蘋(原古処の娘)が有名ですが、こんな近くに、しかもこんな傑物がいたとは驚きです。代々の眼科医の家に四姉妹の末子として生まれ、英才ゆえに家督相続のため、男子として育てられ、しかし、16歳時には女性として婿を取ることを強要される。それを潔しとしなかった乱は結局、離縁。その後、儒者亀井南冥の子、昭陽に師事して儒学者として立ち、人参畑の中に儒学を治める私塾「興志塾」創設。そこには後の汎アジア主義の政治団体「玄洋社」を興すことになる傑物、頭山満、平岡浩太郎らが集います。明治10年、彼らが起こした「福岡の変」への関与を疑われた乱ですが、釈放され、けれどその後も弟子たちが関与した自由民権運動の中で勃発するさまざまな事件に心を痛めながら、明治24年、59歳の人生を閉じたのでした。

 ドラマチックですね。

 この高場乱の生涯を考える時、まるであの「ベルサイユの薔薇」のオスカルのような、という見方も可能でしょう。それはそれで素敵です。でもやはり私は引っかかる。なぜなら、乱の生涯はホモソーシャルな価値観に貫かれたものだったからです。

 乱の優秀さは、その実績から疑う余地もありません。でもその能力は女性のままでは発揮できない、というか、してはいけないものだった。それはまるで、平安時代の紫式部が、兄よりずっと優秀なことに気づいた父親が「お前が男であったなら……」と嘆いたというあのエピソードを彷彿させます。

 「父の娘」という言葉をご存知でしょうか。当たり前の言葉のようですが、内包する意味はちょっと違います。それは、

・男社会の原理に従って生きることで、男性の庇護を受ける女性

 という意味。語弊があればご容赦いただきたいのですが、一部の自民党の女性議員などにそういう人物がいるのではないかと私は思っています。女性の姿をした男性。その事実をメタ認知して、自らの政策に利用してやろうと思えるほどの策士であればいいのですが、たいていはそうではありません。ヒラリー・クリントンがかつて、アメリカ社会にも根深く「ガラスの天井」が存在すると発言しましたが、「父の娘」もその言葉と同根です。

 だから、一見華々しい高場乱の活躍も、ジェンダーという視点から捉えなおすとちょっと胸が痛くなる。現代の価値観を過去にスライドさせてそのままあてはめてはいけないことは重々承知の上ですが、やはり、女性という根本的な(自身ではどうしようもない)属性を否定された乱の心中を察すると割り切れない思いが残るのでした。

 もしも乱が現代に生きていたら、やはり男装という生き方を選んだだろうか。その選択が自身によってなされたものならば何の問題もありません。でもそうでなかったら(男装を選ばなかったら)、乱はその人生をどう生きるのだろう……。ここ博多住吉に数奇な人生を生きたひとりの女性儒医を思うことは、私にとってジェンダーを考える何よりの縁(よすが)となるのでした。

 今回の原稿のお題「極私的歌枕」、こんな経緯を辿り、私は「人参公園」にしました。この稿を執筆するにあたり、BIZCOLIセミナーという場をご用意くださった天の采配に感謝。そして素晴らしいセミナーをご披露くださった講師海獺さんに感謝いたします。(2022年8月23日)

https://minaminouo.exblog.jp/32789065/

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