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当事者家族が語る不登校③

*2019年10月2日初出。

〈対応-「待つ」「聞く」 「笑う」〉
ここまでお話してまいりましたように、娘の不登校の背景には、

1 グレーゾーン

2 学校という社会の持つ閉塞感

3 思春期

4 世代を跨ぐ機能不全家族

5 母親である私のエゴ

などがあったような気がします。それがようやく理解できたのだけど、それで問題が解決するわけではありません。というか、不登校問題の解決って何でしょう?疲れきって、ただひたすらベッドで眠る娘を見て考えました。この状態のこの子を無理やり布団から引き剥がして、学校や受験に引きずって行って意味があるんだろうか? 命がけで学校に行かないという選択をした娘の意思を、また私は踏み躙ってしまうのではないか。悩みました。

学校からは頻繁に連絡が入ります。家庭訪問にも来るという。電話を前に「すみません」と言いながら、でも、ふと思ったのです。なぜ私が学校に謝らねばならないのか。学校に行く、行かないは本人の意思なのではないか。しかもその本人の状態はきわめて悪い。そんな時、どうして私が学校に申し訳なく思う必要があるのか。ふつふつと怒りが湧いてきました。

ああ、こうやって私はいつの間にか学校の回し者になっていたんだ、内申点だとか、平常点だとか、得体の知れないものに踊らされて、そういう忖度ができない娘を追いつめていたんだ。そう思った時、また自分が許せなくなったのです。

だから決心しました。娘が行きたくないというのなら、学校とは決別しよう。今度こそ娘を守ってやろう。学校へは、「もう朝の欠席報告の電話はしません。登校する時は連絡します。家庭訪問もご遠慮いたします。」と告げました。

担任教師は驚いていましたが、それ以来連絡はなくなりました。こうして、学校との関係がそれなりに落ち着いてきた頃、娘にも変化が見られるようになりました。私が本気で、学校に行かなくていいと思っていると信じ始めたからだと思います。

正直言うと、この頃はまだ、できれば高校受験してほしいと思っていました。でもそれを言えば元の木阿弥。娘との信頼関係は絶望的になります。だから我慢しました。学校なんて…という態度を崩しませんでした。

この頃の娘に対してはとにかく「休ませる」、そして心身の回復を「待つ」、娘から話しかけてくるのを「待つ」、話し始めたらただ「聞く」、この態度を貫きました。

そして、何が何でも「笑う」。わが子が不登校になって心の底から笑える人間なんていません。あの頃の私は、ふとした瞬間、恐ろしく落ち込んで、何を見ても泣きたくなることがありました。でも絶対に泣きませんでした。少なくとも、娘の前では。泣いたら娘が苦しむからです。自分のせいで、親が悲しんでいると思うことほど、子どもを苦しめることはありません。

あなたが不登校であろうとなかろうと、そんなこと、私の人生には何の関わりもないことだ…そう言って毎日を過ごしていました。あの頃の自分、本当によく頑張った。あの頃の自分、本当に立派だったと今さらながら思います。笑笑。

そんな芝居の甲斐あってか、娘はだんだん元気になりました。私自身も不登校について学ぶ場をみつけては出かけていき、そこで、同じくわが子の不登校について考える方々と出会いました。自分ひとりで抱え込まず、話せる場を見つけることも大事です。「話す」は「離す」。客観的に物事を考えられるようになります。そんな場をみつけたことで、ずいぶん気持ちが楽になりました。今でも、感謝しています。

・パンケーキおまへの好きなパンケーキ ベリーソースにクリームかけて

・学校に行かぬ以外は異常なし猫にわたしに優しき少女

その頃の作品です。娘がのっそり、布団から出てきた時は本当に嬉しかった。何が食べたいか聞くと、パンケーキと答えた。嬉しくて嬉しくて、たくさん焼きました。ああ、もうこのまま毎日ずっとパンケーキ焼いて過ごしたいと思いました。

そして気づいたのです。この子が学校に行っていようがいまいが、この子であることに変わりはない。病気になってしまった猫にも、ひどい母親だった私にもとても優しい。

そして何より、生きていてくれる。

それだけで十分だと。

(次回に続く)

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