これも人権問題
*2021年9月12日初出。
幼生成熟(ネオテニー)ってご存知ですか?
・昨夜就寝前に目にした友人のSNSの投稿。なんだかずっとモヤモヤして眠れませんでした。その投稿が、ではなく、その投稿に対するコメントが私にはなかなか理解が及ばないものが多かったのです。
投稿の内容はこういうものでした。
・①ある街の公的キャンペーンのシンボルキャラクターとして採用されたVtuber(デジタルで作られた架空の人物)がお腹部分が露出し、胸を強調した小さなセーラー服に、超ミニスカート着用していることに対して、②フェミニスト団体がその是非を問う抗議文を市に対して提出したところ、③そんな表現の自由に抵触するような抗議を認めていたらこの国の表現の自由はなくなってしまうじゃないか、と抗議に対する抗議が提出される模様である、というもの。
こういう現状を受けて、投稿者は、「フェミニストの方々が抗議の声を上げたことに対して、それは表現の自由を侵害するものだ、と抗議することも実は表現の自由(この場合は思想、信条の自由かな)を侵害しているのではないか」という考えを表明されたわけです。(こういう書き方だと「抗議の抗議の抗議の…」と永遠の入れ子になりそうですがそこは事実に基づいたところで考えたいと思います。今は③の段階)。
こうした事実関係の叙述について別にモヤるところはありません。でもコメント欄に寄せられたご意見にはちょっとモヤモヤ。なぜならコメントの多くは圧倒的に(上記経緯の)③寄り。つまり、どんな服着てても、どれだけ露出の度合いが高くても、それが好き、そうしたいって言うならそれは個人の自由でしょう?っていうご意見(ごめんなさい、もっと難しい言葉で書いてあったと思うんですけど、でもこういうことでした)。私が気持ち悪くてたまらないのはここ。なぜ気持ち悪いのかなーとちょっと深いところまでダイブして見えてきたのは、
・この小さいセーラー服をピッチピチに着こなす女性、これは成人女性ではないだろう。
・このキャラクターが公的機関のキャンペーンに採用されたのだという事実をあらためて認識。
・個人的にこういうネオテニー(幼生成熟)嗜好があることはそれこそご自由に、の範疇。
・でも、それに公的キャラとしてお墨付きを与えてしまうことに関係所管は疑問を持たなかっだのだろうか。
・上記経緯②③の部分について、②の抗議を提出したのがフェミニスト団体ではなく(こういう例にするのは本当に申し訳ないけれど)性暴力被害者の組織だったりした場合、③のような反応はできただろうか。今回の「抗議の抗議」をした側に、「またフェミニストが…」みたいな先入観はなかっただろうか。
・↑どういうことかというと、「〜の自由」という表現の根本は人権意識。人権とは、人間生得の権利で、その生き方を誰にも侵害されないことを保障されること。
・じゃ、「表現の自由」は保障されるんだからこのキャラクター採用についてつべこべ言うなってなりそうだけどちょっと待って。
・この「〜の自由」が保障されるのは、その「自由」が他の人の「自由」の行使に干渉しない場合のみにおいて。
・つまり、あなたの「自由」が誰かの「自由」を奪ってしまう、その人を「不自由」な状態にしてしまっている場合はちゃんと話し合いましょうね、っていう作業が必要になる。
・このケースでいうと、このネオテニーキャラクターが公式に認められることで自らの女性性を蔑された感じがして落ち着かない、と考える人(②)がいたら、表現の自由を唱える人(③)との間で、公平に話し合うことが必要だということ。
・でも、残念ながら、現況では「公平に」にはほど遠く、③の立場の人の声が圧倒的に大きい。中にはこのキャラクターのデザイナーが女性であることに言及して、「せっかく女性が活躍しているのに、フェミニストたちが水をさす。女の敵は女。」という発言も目立ち、違う次元の問題にされてしまった感もあり…。伝わらないなあというのが実感。
で、なぜ私がこの問題にモヤモヤしているかというと、多分このキャラクターを良しとするこの国の文化の背景にあるものに辟易しているから。まずなぜ「制服」なのか。この制服のシンボリックな意味を考えると日本で女性として生きる辛さが浮き彫りになるような気がします。
素直じゃないと
可愛いくないと
若くないと
あんまり考えない子じゃないと
社会が望んでいる女性がこんな形をしているのならこの国の未来はないですよね。女性の社会進出、女性政治家の台頭がお題目で終わるのも当然だと変な納得をしてしまうのでした。
自分が気づいていないところで自分の行為や発言で傷ついている誰かがいるもしれないと常に想像する、そして指摘された時は真摯に考える、それが人権意識。自戒を込めて。