俊成と定家
*2018年12月19日初出。
畏れ多いといえば、あまりに畏れ多い藤原俊成、定家親子をわが身に譬えてブログを書くという行為。6年前の駄文でございます。
今、高野公彦著『明月記を読む』を読書中。この経緯については以下の短歌ブログ「南の魚座 福岡短歌日乗」に書いた(ご参照下さい)。
https://minaminouo.exblog.jp/30224790/
で、書きながら、これは不登校問題を考える一助になるのではないか、と考えた。
本書の登場人物、藤原俊成は父、定家は息子。ともに後世に名を残す大歌人である。この二人は親子ひとまとめで、和歌の詠風を革新した、と語られることが多いのだが、本書『明月記を読む』を読むと必ずしもそうではなかったことがわかる。
俊成、定家親子は、和歌の世界におけるニューウェーブ。1200年頃の人。それまで良しとされていた万葉調の作品ではない、新しい象徴性を重んじる作品を詠むことを目指していた。革新派という意味では二人は同志なのだが、父俊成は、息子定家があまりにも尖鋭的過ぎることを危惧していた。ベクトルは同じでも、その強度が違っていたのである。
万葉集を良しとする守旧派から、「わけのわからん達磨歌を詠むヤツ」と揶揄された定家。しかし、俊成は積極的に定家を庇護しようとはしなかった。親の目から見ても、やはり定家の資質は理解を超える部分があったのだろう。そんな周囲の態度にいったんはヘソを曲げる定家だが、持ち前の実直さを持って歌作を続ける。そこに若き英明の後鳥羽院が現れ、定家の並み外れた才能を取り立てるのだった。
定家の尖鋭さを危ぶんでいた俊成も、新しい和歌の潮流の誕生を喜んだ、というのが、一応の流れ。
さあ、ここで大変畏れ多いことながら、俊成を私、定家を娘、としてみよう。
私たち親子は教育についてはかなり革新的な考え方をしていたように思う。学校というシステムを信頼していないというベクトルは娘も私も一緒。でも、私は学校に行くという行為を疑ったことはなかった。疑問として意識することはなかったのだ。しかし、娘は違った。学校に行くことそのものを疑問に思った。私はその尖鋭的過ぎる考え方が理解できず、つまり、娘が理解できず、苦しんだ。ベクトルの強度の違いに悩んだのだ。でもそこに後鳥羽院のような人々が現れた。学校だけが全てではない。人間の数だけ未来がある。そんな人々の声を聞いて、ようやく私は気づいた。娘は私の遥か先を走っていたことに。だれもまだ走ったことのない道を走っていることに。
自分の懐から定家を飛び立たせた俊成の器の大きさを感じる。歌人として、さらには親として。定家の成功を支えたのは、父俊成の定家への信頼だったのだ。歌人としての俊成に倣うことはもとより無理だが、親としてなら倣うこともできるような気がしている。