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It’s a small (すぎる) world.

*2020年11月6日初出。

今はもう言われなくなったのかな?

「学校でうまくやれない人間は社会に出てもうまくいくはずないんだよ。」

っていう(決め)セリフ。

私自身が学生だった頃、高校教員だった頃、そしてトラ子が学校に不適応を起こした頃にも頻繁に聞いたし、場合によっては私自身が口にしてもいました。

当時の私は本気でそう思っていました。学校という組織からこぼれてしまうような人間は、結局どこにいってもこぼれてしまう。社会に出て困らないように、勉強のみならず、いや、ひょっとしたらそれ以上に人間関係を学ぶ擬似社会、それが学校なのだ、そう信じて疑いませんでした。

だから娘が不登校になった時は辛かった。社会の落伍者という烙印を押されたようでもう将来の見通しが立たず、まさにお先真っ暗という感じ。

その時の私に言ってやりたい。

ちょっと待って。娘、学校に行かないっていう選択をしただけだよね。それは、「今」そうなのであって、この先ずっとそうだなんて決まっているわけじゃない。不登校からのひきこもりという図式を想像して、学校に行かないことを絶望的に考える人が多いけど、この両者の間には実はかなりな距離がある。でも、その距離を詰めてしまっているのは、不登校当事者の周囲の人間かもしれないよ。

不登校は、ある種のエネルギー枯渇状態。心身ともに疲弊しきってしまい、もう動けないという、子どもからのSOS。だとしたら、ここはもう休ませるしかありません。適応力だの協調性だの、それはその子あってこその問題。今は疲れきった、目の前のこの子をどう守るか、に注力する時だろうと思います。

そもそも、学校は社会の縮図という考えはかなり強引な「刷り込み」です。そこにいるのは、学齢期の子どもと教育という専門職に携わる概ね20-60代の人々。子どもたちは同年齢同士、一つの教室で一斉に同じことを学びます。こんな点からも、実は学校はかなり偏った組織であることがわかるでしょう。

不登校になったとしても、それはたまたま学校という一つの場所と折り合いがつかなかっただけ。学校が世界の全てではありません。そもそも不登校という言葉、状況を説明するのに便利だからついつい使ってしまうけど、これも「登校」がデフォルトで、そうじゃないことをしてるから「不」をつけてアンチを強調している感がありますね。意識は言葉に表れて、使われ続けることでいつしか信念に変わっていきます。

学校に行かないという状況が、自らの選択であり、その道の先にはちゃんと未来があることを表す言葉。それを考えられる社会であってほしいと願います。

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