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記憶とは、事実とは何かを問い直す〜『母性』感想〜

この作品は映画が宣伝されている時に知った。印象的なタイトルだったが、その時は映画も見ず、原作も読まずにいた。

最近kindle unlimitedにて公開されていたため、原作を読んでみた。
面白い作品で、いろいろと考えたり感じたことがあるため記しておこうと思う。

『母性』あらすじ

女子高生が自宅の中庭で倒れているのが発見された。母親は言葉を詰まらせる。「愛能う限り、大切に育ててきた娘がこんなことになるなんて」。世間は騒ぐ。これは事故か、自殺か。……遡ること十一年前の台風の日、彼女たちを包んだ幸福は、突如奪い去られていた。母の手記と娘の回想が交錯し、浮かび上がる真相。これは事故か、それとも――。圧倒的に新しい、「母と娘」を巡る物語(ミステリー)。(解説・間室道子)

『母性』 湊かなえ(著)

事実とは、記憶とは何か?


記憶を辿る時に、同じ時間、同じ空間にいた二人でも、片方は「相手を抱きしめようとした」と綴り、もう片方は「相手から首を絞められた」と回想する。

これはどちらの記憶が事実なのだろうか?

ミステリーでもエンターテインメント小説でも、多くの作品で初めに出てきた情報はミスリードで、実は別の事実が隠されていることがよくある。

そのため、この作品でも後から語られることが事実だと認識してしまいそうになるが、そこは解説の間室氏も述べている通り、この作品に登場する「母」と「娘」は「信用できない語り手」である。

私は、後から出てきた証言や回想も「この人から見たらそう思った、感じたのだろう」「どちらが事実かはわからない」と受けとめながら読んだ。

そして、記憶とは、事実とはなんだろうと考えた。

自分では、何年前にあの人からこのような言葉をかけられたとか、こういう出来事があったと「記憶」して「事実」だと認識していることも、「あの人」にあたる人や第三者から見たら違うように見えるのかも知れない。

フィリップ・マグロー著作の『史上最強の人生戦略マニュアル』に「事実なんてない。あるのは認識だけ」という章があるが、人それぞれが五感で知覚したものを自分の解釈や感情を加えた上で記憶し、それを事実と認識しているのではないか、と考えた。

そう考えると、時折起こる人とのコミュニケーションにおける嚙み合わなさも理解できるような気がした。

いつでも自分の認識や記憶を疑っていては、どこか雲の上を歩いているような心許ないような感覚になってしまうが、心が乱れる時や冷静でいられないような時には、「自分はこの出来事をこのように認識、解釈したが、他者から見たらまた違うものが見えるかも知れない」ということは心に止めておいてもいいのではないかと思った。

感想

私も母とは様々な確執があり、複雑な思いもある。

この本を読んで、そんな記憶を思い出したり、今母に対して思うことを考えて不快で嫌な気持ちになりたいと思って読み始めた。我ながら変な動機だが。

だが、読み進めるうちに、「母」も「娘」にも考えることや行動の端々は理解できるような気もしたが、全体的にこの「母娘」は私たち(私と母)とは違うなと思った。

そのため、それほど自分と母のことを思い出したり、重ねて読んだりすることもなく、切り離して読めた。

そして不思議なことだが、思いのほか読後はすっきりした感覚があって驚いた。

はじめは、ラストが急じゃないかとか、無理に前向きに終わらせようとしているのかと思いながら少し釈然としない思いで読み終わった。

しかし、読了して寝ようと目を瞑って読後感を味わっていたら、だんだんと「なんだかわかるなあ」という気持ちになってきたのだ。

「母」にも「娘」にも相手に対する様々な思いがあり、それがほとんど噛み合わず思いも届かずうまくいかずに過ごしていくのだが、それぞれが別個の人間性を持った個人であり、その人なりのやり方で生きていくのだなと。

要は、女って強いのよねというのが最終的な感想だ。

これが「母」と「息子」であったらまた全く違ったと思う。
息子の場合でもいろんな付き合い方があるだろうが、対娘とは全く違うだろう。

女は生まれた瞬間から女で、その独自の強さがあって。
「母」であっても「娘」であってもその強さで自分なりに世の中を渡っていくのだろう。

私はそんな風にこの本を読んだ。
著者の他の作品も読もうと思う。

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