未来なきモクズガニα
モクズガニは静かに水辺にたたずんでいた。澄んだ水面に映るのは、ひどく小さなハサミと、よろめくように動くか弱い姿。彼には何も持ち合わせていなかった。速さも、力も、耐久力も。周りのカニたちからは、ことごとく軽蔑の眼差しを向けられていた。
今日も、アカテガニがその冷ややかな目で近づいてきた。アカテガニは、鮮やかな赤い甲羅に強いハサミを持ち、あらゆる試合で勝ち続けている強者だ。モクズガニとは対照的に、彼はフィジカルの塊のような存在だった。アカテガニは少しモクズガニを見下しながら問いかける。
「なぜ、あなたはそんなにも弱いのか?」
モクズガニはその問いに対して、一瞬だけ何かを考えるように沈黙した後、ゆっくりと答えた。
「我思う、弱さを知ることは強さを知ることなり……」
その答えを聞いたアカテガニは、鼻で笑うように軽く息を吹き、続けて問う。
「では、なぜ勝てないのか?」
モクズガニはふっと笑った。だが、その笑みは悲しみにも似ていた。
「あぁ……諸行無常……」
アカテガニはそれ以上何も言わず、踵を返して去っていった。彼にとっては、弱者の哲学的な言葉など無意味であり、ただの敗者の戯言に過ぎなかったのだろう。モクズガニは、そんな冷淡な反応を当然のように受け止め、再び一人になった。
それでも、モクズガニは戦いをやめなかった。どんなに負け続けても、毎日のように戦場に立つ。今日もまた、対戦相手はロブスターだ。彼は見事な赤色の甲羅を誇り、強大なハサミと安定した耐久力で知られる強者だった。
「今日も負けるだろうな…」
モクズガニは自嘲するように思ったが、それでも戦わなければならない運命だった。ロブスターがパイルバンカーを打ち付ける。モクズガニはその撃鉄を捌くことすらできない。ほんの一瞬で背後に回り込まれ、次の瞬間には鋭いハサミで攻撃される。痛みが走り、モクズガニの体は地面に倒れ込んだ。
観戦しているカニたちは、またかと失笑を漏らす。モクズガニは敗北の中に横たわり、動かない。しかし、そんな冷たい視線にも、彼は慣れていた。
「モクズガニには未来がない」
その言葉がどこからか聞こえてくる。何度も聞いてきた言葉だ。それでも、モクズガニは目を閉じず、ゆっくりと立ち上がる。傷だらけの体を引きずりながら、彼はまたも戦場に戻る。
「未来がない」と皆が言う。だが、モクズガニ自身はそうは思っていなかった。確かに彼には力がない。速さもないし、耐久力もない。何もかもが欠けている。だが、彼には一つだけ他のカニたちが持っていないものがあった。
それは「夢」だった。
モクズガニは小さな頃から夢を見ていた。自分が弱者の立場から這い上がり、強者を打ち負かすという夢だ。それは決して他のカニたちが理解できるものではなかったし、笑われるだけの空想に過ぎなかった。しかし、モクズガニにとっては、それが唯一の希望であり、未来を信じる理由だった。
「夢がある限り、俺には未来がある」
そう自分に言い聞かせながら、彼は再び戦場へと戻っていく。ロブスターとの戦いに敗れ、体はボロボロだったが、その目の奥には、まだ消えない光があった。
数日後、モクズガニはまたもアカテガニと出会った。強者として名高い彼は、戦場での勝利を積み重ね、ますますその名声を高めていた。一方、モクズガニは変わらず弱者のままだ。
アカテガニは再び冷たく問いかける。
「お前はまだ夢なんか見ているのか? そんなもの、何の役にも立たないだろうに」
モクズガニは微笑みながら答えた。
「夢こそが、俺を動かすものだ」
アカテガニはその答えに嘲笑を浮かべた。
「強さがなければ、夢など意味を持たない。現実を見ろ。お前は永遠に弱者のままだ」
モクズガニはその言葉を受け入れるように頷いた。確かに、彼は強くはなれないかもしれない。何度戦っても、負け続けるかもしれない。だが、夢がある限り、彼は戦い続ける理由を持っていた。
「強さとは、勝つことだけではないんだ。俺にとっての強さは、負けても立ち上がり、また夢を追い続けることだ」
アカテガニはその言葉に何も答えなかった。ただ、無言のままモクズガニを見つめ、その場を去っていった。
モクズガニは今日も戦う。そして、今日も負ける。しかし、彼の心には確かなものがあった。それは、夢がある限り、未来がないわけではないという確信だ。弱者としての苦しみや痛みを知りながらも、彼はその先にある希望を信じていた。
「モクズガニには未来がない」という声が、何度も何度も響く。それでも、彼はその声をかき消すように歩き続ける。
夢を持ち続ける限り、モクズガニにはまだ見えない未来がどこかに待っているかもしれない。そんな淡い期待を胸に、彼は再び次の戦いに向かって歩き出した。
モクズガニには夢がある。そして、それが彼にとっての未来だ。
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