お母さんは阪神ファン―アレと禁忌と祝祭と―
この記事は「言語学な人々」Advent Calender に参加したものです(すっかり予定した日より遅れてしまい誠に申し訳)。
阪神の「アレ(A.R.E.)」、新語・流行語大賞の年間大賞受賞おめでとうございます。日本シリーズ制覇は1985年以来38年ぶり2度目ということで、一大ムーブメントの結果の堂々受賞ですね。
「言語学な人々」参加記事ということで、この記事では言語学・日本語学的な視点から「アレ」を扱ってみようと思います。「アレ」については既にまつーらとしおさんが記事を書いておられますので、こちらもどうぞ(用語の使い方など本記事と異なる部分もあるので、注記しつつ書いていきます)。
また、ニッセイ基礎研究所ウェブサイトの島田壮一郎さんのコラムでも、コミュニケーションモデルの側面から触れられています。
まつーらさんの記事は、「アレ」の指示語としての基本的特徴をまとめていますが、この記事では「アレ」が一種の「集団語」として働いたことに注目を向けたいと思います。まつーらさんの記事と合わせて読んでいただくことをお勧めいたします。
前置き:お母さんは阪神ファン
本題に入る前に、筆者自身の話を書いておきます。これは個人の体験で「アレ」の話そのものとは関係ないのですが、阪神という存在に対して「われわれ」が抱く入り混じった感覚が伝わるんじゃないかなと思うので。
私は近畿の片隅で生まれ育ちました。生まれは「濃いぃ」阪神色のある地域ではありませんが、地元の家電量販店は当然のように阪神応援キャンペーンを展開し、飲食店にいくとそこそこ阪神グッズが飾ってあるという環境です。加えて、うちの母親は阪神ファンだったので、母の車に乗るとよくラジオから試合中継が流れていたし、休日にナイターがある日はテレビも阪神戦がついていました。
で、私はといえば、阪神の試合結果によって上下する母の機嫌にやきもきさせられるので、野球そのものについて複雑な感情を持つようになりました。うちの母は「静かな阪神ファン」で家族や周囲に応援を求めたりするタイプではなかったのですが、それでも「触らぬ神に」という状態ですね。
今年日本一が決まった後で用事があって実家に帰ったら、「前の[日本シリーズ制覇の]時のこと、覚えてるか?」と38年前の話をされました。知らんがな。でも18年前のセ・リーグ優勝の時のことは、私もよく覚えています。その時すでに実家を離れて一人暮らししていた私は、ちょうど母に電話をしたい用事があったのですが、日本シリーズで阪神があまりに連敗するのでなかなか電話できず難儀した覚えがあります。
こんな感じで「阪神ファン集団」と「それ以外」が入り混じって生活するので、阪神の動向は「この地域」にとって祝祭の種であると同時にある種の禁忌でもあるっちゅーのが肌で覚えた感覚です。
集団語としての「アレ」
それでは、ここから本題の「アレ」の話に入っていこうと思います。今回話題になっている岡田監督発信の「アレ」については、「集団語」という観点から見てみると面白いな、というのがここからの話です。「集団語」について米川(2009)は次のように定義しています。
例えば、警察やテレビ業界などの特殊な表現や、学生集団の作り出すキャンパス語などが集団語として挙げられます。典型的なものとして「隠語」「符牒」のように他の集団にばれずに伝え合う表現が挙げられますが、必ずしも隠す目的ではない集団語もありますし、「語」のレベルではなく句や構文、造語法のようなものもあります。
岡田監督と「アレ」の歴史
岡田監督が「アレ」を使ってきた経緯は、最初にも紹介した以下の記事などで詳しく紹介されています。
この記事には「アレ」の使い始めが次のように紹介されています。
つまり、最初は「優勝」を忌み語として避ける個人的な言い換え表現として岡田監督が使い始めた「アレ(→優勝を指す)」という表現法が、コーチを含めたオリックスというチーム集団→報道陣集団→オリックスのファン集団へと広がっていったようです。
岡田監督が阪神の監督に就任し、岡田監督の「アレ」が「A.R.E.」としてチームのスローガンになったことで、「アレ(→優勝を指す)」は阪神というチームの選手・ファン集団を象徴する集団語として認められることになったと言えるでしょう。その「アレ(→優勝を指す)」がここまで一般に認知され、私のような野球にも流行の話題にも詳しくない人間の耳にも届くまで注目されるようになったのは、阪神の久しぶりの活躍と優勝・日本シリーズ制覇という強さが大きな要因でしょうが、それと同時にやはり「阪神」というチームやそのファン集団のアイデンティティの強さや特殊性、話題性も一役買ったのかなと思います。社会言語学的な用語で言えば、阪神という集団が(たとえチームが強かろうと弱かろうと)持っている「威信 (prestige)」が働いたのでしょう。
集団語の発生要因と機能
さてこの「アレ」ですが、もともとは直言を避ける言い換え表現とはいっても、ファン向けのグッズにしたりチームのスローガンにしたりする時点では、集団の外に対して意味を隠蔽する目的を持ったものとは思えません。ということで、「アレ」を使う目的についても米川『集団語の研究』に照らして考えてみたいと思います。
米川(2009, pp.23-27)が挙げている隠語の社会的機能と、集団語が生まれる要因を見てみましょう(以下はこの記事の筆者がまとめ直したものです)。
米川の分析に照らして整理すると、岡田監督の「アレ」については広義の隠語と見なすことはできるものの、集団の秘密保持という役割ははなから持っていなかったように思われます。それよりも、縁起を担ぐために用いられ始め、チーム・ファン集団の連帯意識やアイデンティティを高める役割を果たすようになったとまとめられそうです。
ちょっと横道:社会集団としての「チーム」「ファン」の特徴?
米川の『集団語の研究』をここまで大いに参考にさせてもらったので、本題からはややそれますが、次の話題に移る前にすこし社会集団としての「チーム」「ファン」の特徴についても触れておきたいと思います。
米川は集団語の分析に際して、それを成立させる「社会集団」の性質をもっとも重視すべきだと論じています。社会集団の分類に際して米川は、森岡清美・梅原勉・本間浩平編『新社会学辞典』にもとづいて以下のような社会集団の5つの条件を挙げています。
5つの条件をどの程度満たすかによって、集団の凝集力や性質が変わってきます。例えば、犯罪組織のような反社会的集団や、警察や官庁のような組織性の高い職業集団、軍隊・囚人のような「非拘束集団」は①~⑤の条件すべてが強く認められるのに対して、「学生集団」と米川が呼ぶ集団については、①相互作用と⑤集団意識 は見られるものの、②集団目標・③集団規範・④組織 は見られません(米川の分類については、雑誌『日本語の研究』19巻3号掲載の金水敏(2023)の書評が分かりやすく整理しています)。
では、「野球チーム」および「特定チームのファン集団」はそれぞれどんな集団と特徴づけられるでしょうか。選手や監督・コーチ陣などを含めた「チーム」については、①~⑤の全ての条件が明確に当てはまるでしょう。それに対して、「特定チームのファン集団」は米川の分類では「趣味娯楽集団」に入るでしょうが、「囲碁ファン」や「映画オタク」のような他の趣味娯楽集団と比べるとより多くの条件を満たしそうです。金水の書評に従って、各条件が強く認められるものを〇、あまり認められないものを×、中間的なものを△で示すと次のようになるでしょうか(?を付したのは自信がないところです)。
趣味娯楽集団(「囲碁ファン」集団、「映画オタク」集団…):
①相互作用〇 ②集団目標× ③集団規範× ④組織× ⑤集団意識〇特定チームのファン集団:
①相互作用〇 ②集団目標〇 ③集団規範△? ④組織×~△? ⑤集団意識〇
ファン集団といっても、ファンクラブや応援団に入っているかなどで濃淡の差はありそうなのが難しいところですが、一般的な趣味娯楽集団よりも凝集力の高い集団だということはできそうです。
スポーツチームに関係する集団語の面白い点は、「チーム」と「ファン」のような性質の異なる集団にまたがって多層的に使用されることなのかもしれません(憧れの集団(=「チーム」)が使っている集団語を使うことで連帯感や一体感を感じられるというのは、スポーツ以外でも「推し」を持っている人には覚えのある感覚ですよね…!)
「アレ」の言語的特徴と集団語
ここまでは、「アレ」が集団語としての機能をはたしてきた、という側面について述べてきました。ここからは、なぜ「アレ」が選ばれたのかという要因について、「アレ」という語の言語的特徴に基づいて考えてみたいとおもいます。
指示語と連帯
まずは、指示語 (demonstrative) であるという特徴から。
指示語が連帯感や結束を感じさせるというのは、日本語に限ったことではないようです。英語の指示語について、Acton & Potts (2014) は、指示語が結束や視点を共有している感じ、仲間意識などをもたらすという先行研究の議論(Robin Lakoff 1974 ほか)に基づいて、理論的な考察とSNSの投稿に基づく量的な分析、アメリカの政治家サラ・ペイリンの特徴的な指示語の使い方についての分析を示しています。
問題となっている指示語の例は、たとえば次のようなものです。
Acton & Pottsは、指示詞の持つ基本的な意味と使用条件から、このような結束や近しさがもたらされると考え、その過程について分析しています。たとえば下の2つの例で、定冠詞の場合と指示詞の場合を比べて論じています。
定冠詞 the NP を用いた場合には、NPによって適切に記述される唯一の際立った (salient) 対象が文脈の中で決められるという前提が生じます。つまり、(1a)を言われた人は、振り返ったらシリアルの箱を1個だけ見つけることができるはずだということです。それに対して、指示詞を用いた(1b)の場合は、聞き手は振り返った先に1個だけシリアルの箱があると想定することはできません。
これは、指示詞を使うことで生じる前提が定冠詞とは異なるからだとActon & Potts は論じます。指示詞の場合は次の3つの前提が生じ、特に3つめの前提によって、that NPが指すものを特定するために話し手の視点を考慮することが求められるという分析です。
この話し手の視点への依存という意味論的特徴によって、結束や仲間意識といった社会的効果が説明できるとActon & Potts は論じています。1つには、話し手の視点を考慮するという行為自体が、聞き手が話し手に共感している、分かりあっているという感覚を与えるから。もう1つには、指示詞を使うことで、話し手は聞き手に対して「私たちは経験や視点を十分に共有できていると信じてますよ」というメッセージを送ることになるからだというのです。
定冠詞の有無や指示詞の体系の違いなどがあるので、英語の議論を日本語の分析に適用するには丁寧な検討が必要ですが、すくなくとも指示対象を特定するうえで話し手の視点を何らかの程度考慮しなければいけない点は、日本語の「アレ」にも当てはまる言語的特徴だと思われます。
なぜ「アレ」だったのか?
最後に、日本語学的な考察として「なぜ「アレ」がもっともこの役目に向いていたのか?」について考えたいと思います。
セ・リーグ優勝後、岡田監督は「アレ」の封印宣言をしたそうで、「日本シリーズ優勝」を何と呼ぶかということがちょっとした話題になったとかなんとか。話題に全くついていけていない私は、例によってこのことも新聞記事等を調べて知りました。朝日新聞ではハッシュタグを作ってSNSでアイデアを募ったりもしていたようです。
サンスポの以下の記事には、岡田監督自身が「アレ」を選んだ理由について語った内容が書かれています。これ結構 folk linguistics(一般人が感じる言語感覚)の言語化として面白いですね。
もうちょっと日本語学的に掘り下げて考えてみると、集団語として成立し、たくさんの人が様々な場で使う表現として定着してきた過程を考えると、やっぱり指示語の中では「アレ」がもっとも適任だったのだろうなと思います。どうしてそう考えられるか、ということを、「ソレ」「コレ」と比較しながら話してみようと思います。
まずは、用法の大まかな分類から。最初に紹介したまつーらとしおさんの記事では、岡田監督の「アレ」を文脈指示と呼ばれる用法の一種とされていましたが、この記事では文脈指示でないと見なします。研究者によって用語の定義や分類の基準が異なるので難しいのですが、この記事では『日本語文法辞典』(2014, 大修館)の「指示」という項目の記述(金水敏著)に倣って以下のように分類します。
①「文脈指示」:言語的文脈に先行詞を持つ(照応)
②「独立指示」:言語的文脈に先行詞を持たない
②-1「眼前指示」(「現場指示」とも):目の前にある指示対象を指し示す
②-2それ以外(「観念指示」とも):以下のようなものがまとめられるが、異質なものが混在
記憶に依存した指示対象:(カステラを買ったことを覚えていて)「おかあさん、あのカステラ食べない?」
???:「ちょっとそこまで出かけてきます。」
文脈指示の基準である「言語的文脈に先行詞を持つ」というのは、「あらかじめ出てきた語と同じものを指す」ということになります。岡田監督の「アレ」が文脈指示だと分析すると、会話のどこかで「優勝」という語が出てきていて、あとから「アレ」という語で優勝という意味を指したことになり、上で確かめた「アレ」使用の経緯とはちょっと違うと思われます。また、「アレ」が「眼前指示」でないことも明らかなので、上の分類では「それ以外」という何ともすっきりしないところに入れることになってしまいます。「記憶に依存した指示対象」の例が最も近いでしょうか。
(「アレ」の場合は「あのカステラ」と違って「意味のある」名詞とセットされている訳でもないので、語だけでは何のことを指しているのか全く手掛かりがありません。裏を返せば「知らない人には全く意味が分からない」というのは集団語に最も向いているとも言えそうです)
このような指示の種類を踏まえて、指示語を隠語として用いて何かを指す場合について考えてみましょう。以下のような発話をする場面を思い浮かべてください。
(2a)「あの人、アレだからね。」
(2b)「あの人、コレだからね。」
「あの人」が誰を指すかは話し手も聞き手も分かっているけれど、「あの人」がどんな人なのか聞き手は全く情報を持っていないとします。2つの発話のうちどちらを使うこともありそうですが、「コレ」を使った(2b)の場面では何らかのジェスチャー(例えば、酒を飲むしぐさ、角が生えるしぐさなど)を伴うことが想定されます。つまり、「コレ」が指示する内容(大体の場合、ちょっと言うのがはばかられるような状態や性質)を特定するには、発話の場に手がかりが存在する必要があるのです。隠語的用法の「コレ」は現場指示としてジェスチャー等を指すことで、間接的に指示内容を指すと考えることができます。
それに対して、「アレ」を用いた(2a)はジェスチャー等の存在を必要としません。発話の場に手がかりがなくても、観念指示として理解でき、話し手の視点では何らかの概念と結びついているものと扱われます。文字情報としてコミュニケーションする場合も含めれば、発話の場の手がかりが必要でない「アレ」のほうが「コレ」よりも用途は広いと言えるでしょう。
いっぽう、「ソレ」については(2c)のように隠語的に使うことはかなり難しそうです。
(2c)「あの人、ソレだからね。」
これは、ソ系列の指示詞が言語的な先行詞を必要とする(上山あゆみ1991『はじめての人の言語学』ほか参照)という指摘に沿って理解することができます。隠語や集団語として何かを呼びたいとき、指す対象を本来の語で呼ぶことはできません。隠せなかったり、「冷めて」しまったりするのでは困るでしょう。ということで、既に発言された言葉を指す「ソレ」が隠語になるというのは、あんまりありそうにない状況です。
ただ、今回のように話題として「優勝」が盛り上がってきた状況では、「ソレ」で優勝を指せてもいいんじゃないか、という感覚になるのかもしれません。話題として扱う人たちにとっては、「優勝」は言語的に与えられた先行詞ということでしょうか。でも、話題として盛り上がる前から実現を待ち望んでいたチームやファンからすれば、これってかなり「外野」からの感覚な気がします。
〆は、ちょっとした偶然の話
長々と、本当に長々と書いてしまいました。あまりにもいろんなことを考えすぎて、まとまりもなく、予定した日にも書き上げられず、心はガウガウしています。
でも、ちょっとした偶然があったので、共有して〆にさせてもらおうと思います。
この話題で記事を書くことにしたのは11月中頃で、その後新語・流行語大賞に「アレ(A.R.E)」が選ばれました。歴代の新語・流行語って何があったんだろう、指示語が入っている例ってどれくらいあるのかな、と思って公式ホームページやWikipediaを見ていたら、ありました、指示語が入っている流行語。
今の世の中では絶対に許されんようなCMですが、昔はよく「懐かしのCM」みたいな番組で見かけました(さすがにリアルタイムでの記憶はありませんが)。「コレ」+ジェスチャーの隠語的用例として、記事を書く前に思い浮かべていた例の1つでもあります。
ちなみにこの語が大衆賞に選ばれたのは38年前の1985年、奇しくも阪神タイガースが前回日本一になったのと同じ年でした。
流行語って、不思議なものですね。