繰り返される人類の歴史を脱却し、更なる進歩を遂げるにはどうすればいいかそろそろ考えませんか。

【問題意識】繰り返される貧困、格差、倫理・同情の欠如、非情な暴力、人種・民族差別、資源枯渇、飢餓、戦争、人身売買、売春。人類が抱える醜い、悲しい出来事は、なくせるのか。なくすには、我々個人としてどのような行動ができるのか。我々は、実は途方も無く幻想的な夢を追い求めているのではないのか。我々は、人類として、「本当に」進歩しているのか。進歩することが可能であれば、具体的にどのような手段があり得るのか。

【本稿を書く理由】デュラント著の「歴史の大局を見渡す ― 人類の遺産の創造とその記録」という本を読んだ。それが上記の問いを思い浮かんだきっかけとなったからだ。

【本稿の結論、構成】結論として、「人々は、自らが進歩するために必要な環境を考えると同時に、又、人間的知性や道徳性、倫理を培わなければならない」と主張されている。

道徳性・倫理を培うのは非常に難しいと思う。必然的に倫理・道徳といった一般的共通価値観から遺脱する人間は発生する。また、そういった人間が人類を進歩させるイノベーションとなる可能性もある。その一方で、同時に人間を破滅に追いやる可能性もある。

また、倫理は流動的である。壊すのは簡単である。ではモラルを破ることのメリットが上回る構造を社会的に是正することは可能だろうか。それが法律の役割だろうか。「セックス」と子供の目の前で言ったら罰せられる方が良いのではないか。法律が雁字搦めに課せられる社会が望ましいのか。バランスは「常に考え続けて決める」ものでいいのか。答えが見いだせない。

話を変えよう。

抜粋「人間社会の本質は競争・戦いであり、適正な法の下にて資源、権力、富、配偶者等の奪い合いが繰り返され、勝者及び敗者が必ず生まれる」と書いてある。

この構造は一生変わらないだろうか。敗者を無くせることはできないのだろうか。敗者は勝者になることもあれば、ならないこともある。敗者として生きるのは辛いだろう。そのつらさを、精神的な改革(宗教による救済や、勝手な思い込み)を通じてではなく、社会構造的に無くすことはできないのだろうか。社会保障でさえ、敗者のレッテルを貼り、劣等感を生じさせることだってある。悲しみをなくせないのか。

勝者の下で生まれる子供と、敗者の下で生まれる子どもとの間に、教育的及び経済的不平等が発生する。やがて子供間の能力の差が世代を経て増幅される。こうして社会は必然的に富の集中又は格差の激化を必然的に経験することになるというわけだ。ただし、多数の貧しい人々の力が、少数の裕福な人々の力を超えるとき、暴力的、政治的、または平和な方法を用いて富の再配分が強制的に促進される。つまり、社会とは、富の集中・再配分の繰り返しであると著者は主張する。

そして自由と平等が共存する社会というのは実現不可能である。平等というのは経済力が平均以下の者が求める概念であり、自由というのは経済力が平均以上の者が求めるものだという。

ではある程度の最低限の自由な生活が守られ、苦しみを減らす仕事はないのか。事後的対処としては医者の仕事があげられる。事前的な仕事としては、事業による消費者への財・サービスの提供、教育の提供、社会福祉の提供などがあげられる。ただ、これらはコストがかかり、政府がそれらを実施するには資金(税金または外部による資金調達(つまり世銀や海外政府による債券発行など)が必要となる。

確かに、1000年前と比べれば、敗者だからといってすぐに食えなくなることはなくなった。そういう生死のレベルで言えば、この世の中はよくなったといえるのかもしれない。

では現代格差の何が悪いのか。敗者が「敗北感」を感じ、不幸感を味わうからだ。結局、勝ち続けることが人間にとって幸福なのかもしれない。敗者が不幸なのは、勝者が敗者に対する精神的な配慮・同情・尊敬を無くすときであり、これが生じる限り、敗者の「敗北感」は無くならなさそうだ。これが生じるなかでも、敗北感をなくすには、敗者側から働きかけないといけないのだろうか。

敗北感も結局主観的である。敗者のなかでも幸せな人間は存在する。主観的な問題として、社会側が気にする問題ではないのかもしれないのだろうか。

こんなことを頭に浮かぶ日が続く。もっと何か浮かんだら書いてみよう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?