ネイルアート

 車の音が不躾に耳に突き刺さる。
 燻らせた煙草の煙が街灯に照らされ、白い煙が高く高く昇っていく。気温自体は低いが湿度の高い空気は身体を舐め回すように不快だった。視界に広がる大きな蓮の葉は歓迎しているように力強く池から顔を出している。呑気な物だ、これだけの池の水があれば幾ら飲んでも無くなる事は無いだろう。
「おっさん、隣良い?」
 煙草の煙で深呼吸をしているとベンチの開いた空間に女の子が飛び込んできた。
「別に良いよ、もう座ってるしね」彼女を見ると、嬉しそうな顔で微笑み、口の大きなガラスのコップに口をつけた。
 まるでチグハグだな。
 彼女は高校生だろうか。女子の制服には詳しく無いが中学生という雰囲気ではない、上野の風俗の娘でもなさそうだ。
 恐らくは本物の女子高生だろうと思う。今時夜中に女子高生がここに居ようが違和感はないが、街灯が微かに照らすワンカップだけは例外だ。
「なに、飲む?」彼女がワンカップを僕に差し出す。
「飲まない、一人で飲んでてくれ」
 そういうと、彼女はまた無邪気に笑った。
「良いねおっちゃん。私ね、一緒に飲もうよっていう男と、飲んじゃイカン!って怒る男とは一緒に居ない事にしてるんだ。おっちゃんはそうじゃなくて良かったよ」
「判断基準が的確だね。経験かい?」
「ああ、でも頭良さそうな話し方する人は嫌い、これ美味しく無くなるしさ。あたし馬鹿だし」
 彼女はコロコロと表情を変え、短時間で喜怒哀楽を表現する。酔っ払っているのかそもそもがそういう人間なのだろうか。
「それが美味しく感じるなら大したもんだ」
 うふふと声を出しながらワンカップに口をつける。
「制服でもそれ買えるのかい」
「へへーん、行きつけの場所があるのよ。ていうか割とどこでも買えるよ。でもコンビニは駄目。なんか良く分からない事言って売ってくれないの」
 大きく開いたガラスの口を指でなぞる。よく見ると右手の人差指にだけネイルアートを入れているようだ。
「面倒くさいよね。なんかさ、私はふわふわしてふわふわしたいだけなのよ。あ、ふわふわって平仮名ね。そっちの方がかわいいでしょ」
 彼女は座り方を変えながらゆっくりと自分との距離を近づけているのに気がつく。
「終電はもう無いけど君は大丈夫なのかい」
「大丈夫って割と大丈夫じゃないのわかって言ってるのかな」彼女は眉を顰め露骨に嫌な顔をする。
「説教って意味じゃないよ。そのまんま言葉の意味の通りだ。家に帰れるかとか酒で倒れないかとか」
 彼女は「うーん」と言いながら伸びをする。悩んでいるのか伸びをした際に口から出てきた言葉なのか。判断はつかない。
「大丈夫じゃないよ。寝る場所もお酒もね。でも大丈夫なの、それが私だからさ。女子高生って最強だから」
 へへーんと笑顔を見せながらワンカップを飲みほした。
「なくなっちった。おっちゃんなんかお酒持ってる?」
「持ってないよ」
「じゃあ煙草ちょうだい。それ吸った事ないから」
 彼女はポケットに無理やり手を突っ込むと煙草を取り出す。一本口にくわえるとキスをするように目を瞑りこっちへ顔を近づけた。
「ん」
 まるでポッキーゲームだな。苦笑いしながらライターで火をつける。
「ありあと」
 くわえたままそう言うと、彼女は深く吸い込み思い切り咳き込んだ。
「そんなに肺に入れるとむせるに決まってるだろ。そんなに重い煙草じゃないんだから」
「えへへ、ごめんごめん、私煙草吸ったの初めてでさ、吸い方わからないの。これきっついね」
 少しだけ涙目になりながら、もう一度咳き込んだ。
「これ返す、間接キスだけどサービスだよサービス。お金はいらないからさ」
 返された煙草をくわえ、一息呼吸する。少しだけ湿ったフィルタに妙な興奮を覚える。自然と口に彼女の煙草をくわえた事と性的興奮を素直に覚えた事に自分で自分に驚く。
「おっちゃん普通そこは捨てる所じゃないの。そのまま吸った人初めて見たよ」
「初めて吸ったんだろう」
「正解」ケラケラと笑いながら彼女はポケットからもう一瓶ワンカップを取りだした。
「じゃじゃーん、これ、さっきの私」
「その為に咳き込んだんなら、相当下らない冗談だけど、僕は嫌いじゃないよ」
「でしょ~」
 低い振動音が、僕と彼女の間だけで静かに鳴り響いた。
「電話じゃないのか」
「私ぃ、今バイブレーター仕込んでるの」煽情的な表情で、顔を近づけてくる。
「嘘だろう、ポケットが光っているのが見えたよ」彼女眉を顰め、顔を遠ざける。
「この冗談糞恥ずかしかったんだからね。もっとおっちゃんもはずかしがってよまったく」
 彼女はポケットからバイブ音を鳴らしモニタを騒々しく光らせた携帯を取り出した。
 一つ溜息を付く。
「おっちゃん、見てて」
 そう言って彼女は立ちあがると、思い切り振りかぶり持っていた携帯を池に向かって振り抜いた。
「キレイじゃん」光の点はキレイな軌跡を描き、遠くで水の音が聞こえた。
 彼女は手を軽く叩き、自信ありげに僕を見つめる。
「どうだ、って顔をしているな」
「どうよって顔をしてるよ」
「これで君は死ねたのかい、産まれたのかい」
 彼女はぱぁっと明るい顔をする。
「おっちゃん、頭良いでしょ」
「そうでもないよ」
「両方だと思う。多分私そういうの待ってたのかもしれないな。おっちゃんいいね。どうせ終電もないしおっちゃんも寝る場所ないんでしょう。ホテル行こうよ」
 彼女は手を回してきた。下品なアルコールの臭いと女性特有の甘い匂いを同時に感じる。
「複雑だな」
「ん、何が?」
「何でもないさ」
 彼女は手の力を強くし、肩に顔を乗せてくる。
「おっちゃん少し臭いけど落ち着くよ。このまま寝てもいい?」
 体重を掛け、目を瞑り始める。
「えっとさぁ私もう壊れちゃってるんだ」
「ああ、わかるよ」
「無理してるっていうか、もうそれもすぎちゃった。私を壊して助けてくれるのはこの子だけなんだ」
 ガラス瓶の淵をカラフルなネイルが愛おしくなぞる。
「寝るなら好きなだけ寝てもいいよ、今日は付き合おう」
 組まれた彼女の腕に少しだけ力が入る。
「いきなり居なくなったりしない?」
「しないよ」
「セックスするとき首締めない?」
「ここじゃ出来ないだろう」
「ふふ、少し残念かな」
 そういうと彼女の頭の重みが強くなり、静かな呼吸音が聞こえてきた。
 ふと気が付くと、聞こえなくなっていた車の音が不躾に耳に突き刺さる。本当に無粋だな。
 目の前の池はこんなにも静かなのに。


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