熊野で修験道を体感した二泊三日
滝行や回峰行ルートを歩くなど、
二泊三日で濃厚な修験道を体感。
自然と一体となる感覚を味わうことができました。
「人間に最も身近な自然は、自身の身体」
これは、横田老師、整体の先生の言葉です。
横田老師直伝の腰椎5番の傾きや、丹田を意識することで、
肉体的な疲労は全然ありませんでした。歩きながらビックリしてました。
また書物で概念としてのみ知っていた価値観を、
全身で体感して、再認識しました。
以下に、今回の体験を通じて、再確認した鈴木大拙さんの言葉を引用します。
■材檎が無心に生きていく
たとえばここに林檎が一つある。林檎はできる時に、わしはいま赤くなって、こういう形になって、こういう時季に成熟してやろうとは考えない。初めての種子のときも、土中に落とされたときも、水に潤おされたときも、そのもとのままで、あらゆる因縁の中に、無心に生きのびて行くだけ。あまり太陽の光や熱が当らないといって不平もいわず、当らぬなら当らぬだけの生育をとげるだけです。何事も命そのままに生きて行くだけです。
『無心ということ』 149
■ 松は松、竹は竹が、ほんとうの自由
自由の本質とは何か。
これをきわめて卑近な例でいえば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束のなきところを、自分が主人となって、働くのであるから、これが自由である。
必然とか必至とか、そうなければならぬというが、他から見ての話で、その物自体には当てはまらぬのである。
『新編 東洋的な見方』 67
■ みずから・おのずから出てくるのが、自由
西洋のリバティやフリーダムには、自由の義〔意味〕はなくて、消極性をもった東縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは東洋的の自由の義と大いに相違する。
自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「みずから」または「おのずから」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。
天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。
『新編 東洋的な見方』 64
■ 自然は善悪の区別・選択をしない。するのは人間
自然はまたこの親しいものも、憎いものも、一様に取り扱う。無親平等である。雨がふれば誰でも溜れる、日が出れば何でも照らされる。自然は区別をせぬ、えこひいきをせぬ。この点では公平である。あるいは無頓着である。「人情」を容れぬ。
人間はそうは行かぬ。選択をする。いろいろないいわけをして、何とかかとか差別をつける。それから不平をいう、そうしてその不平に耳をかす、説明をする。
『鈴木大拙全集第十九巻』 105
■人間を征服するものは人間の内なる自然
人間は外側の敵を克服しつつ、自分の領域を拡げて行くと思っているが、あに図らんや、克服されるべきは、外になくしてかえって内にいるのである。
外にのみ忙わしくて、内を忘れた結果、人間は自分とその作品とをあわせて内から崩されて行く。(目前の〕自然を征服したといって大騒ぎしている間に、敵は後方から押し寄せてくる。
人間を征服すべきものは、外に在るものでなくて、人間自身〔の内にある・自然〕であったのだ。
『鈴木大拙全集第十九巻』 103
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